雪になりゆく
その頃私はまだ高校生で、ただ学校と家を往復する日々を過ごしていた。大学進学を目指していたため部活にも入らず、勉強に身を入れていた。友人からの誘いは断り、放課後はすぐに家へ帰った。その通学路の途中に、彼女の家があった。
通りに面した窓から、彼女の仕事場である、ピアノが置いてある部屋が見えた。私が家へ帰る頃には、彼女が真面目な顔で小さな子供に指使いを教えている様を横目で眺めることができた。また、授業が早く終わった昼頃などは、一人で鍵盤に向かっている様子も見受けられた。音は殆ど聞こえてこなかったが、その白くて細い指が軽やかに動く様から、さぞ優美な曲を弾いているのだろうと思われた。その家の前を通る事は、私の密かな楽しみの一つとなっていた。同じ学校に通う少女達よりも落ち着いた、大人としての魅力を持った彼女に、憧憬していたのである。
彼女は、遠くから見てもはっきりと分かるほどに色が白かった。私の住む街は涼しく、冬が長いほうなので色の白い人はたくさんいたが、彼女ほど白い人を見た事はない。
淡い憧れを抱いたまま月日は過ぎ、私は二年生になった。その春先に、妹がピアノを習いたいと言い始めた。妹は私と三歳違いの中学二年生で、前年行われた校内の合唱コンクールでピアノを弾いた同級生が、輝いて見えたのだと話した。今まで習い事が続いた試しがない上、家にピアノを置くだけの余裕はないと母は反対した。しかし、頑固な妹は、家にピアノを置かずとも先生の家で練習すれば良いと強引に押し切り、次の月から習いに行くことになった。夕方出かける妹のために私が送迎につくことになったが、歩いて数十分の道のりを何度も往復することは徒労に思えた。そこで、母を通じてピアノの先生に掛け合ってもらい、妹の練習の間、先生の家にいさせてもらうことになった。勉強道具を持参すれば良いのである。言うまでもなく、そのピアノの先生というのが、色の白い彼女だった。
そうして私は、それまで眺めるだけだった彼女と、近付くことができた。しかし、図体ばかり大きくなっても根は子供であった私は、彼女と挨拶以上の言葉を交わせはしなかった。彼女は妹と私を笑顔で出迎えてくれ、クッキーまで出してくれた。妹がたどたどしく鍵盤に手を置くと、その位置をそっと直し、何でも良いから音を出してごらん、と優しく言った。私はそうした一部始終を、部屋の隅に置かれた机に向かいながら、聞くでもなく聞いていた。
初めの日は、音の場所と音色を確かめて終わった。彼女は妹の耳が良いとしきりに褒め、玄関まで出て見送ってくれた。道を照らす夕陽を背に受けたせいで彼女の姿は暗く見えたが、それでも彼女の色の白さは目に明るかった。その白さが、家に着いても目の中に残っているようだった。
「お兄ちゃん。先生、雪女みたいに真っ白だったね」
家に着いて早々、妹はそう言ってあどけなく笑った。雪女。確かにそれは、彼女の白さを表現するには的確な言葉であるように思えた。だが、それは同時に、あまりに残酷な響きでもあった。昔話に出てくる雪女の悲しい運命を、妹は知らないのだろうか。
週に一度、妹と私は彼女の元に出かけた。妹は合唱コンクールの演奏の座を獲得するのだと張り切って、練習に精を出していた。彼女も、熱心に指導してくれていた。
彼女の肌の色は、本当にいつ見ても白かった。顔は言うに及ばず、服の襟元から覗いた細い首筋も、黒い髪に縁取られて眩しいようだった。彼女はいつもシンプルな落ち着いた服装をしていたが、その質素さがかえって彼女の美貌を引き立たせているようにも思えて、私はいつも、その白さと美しさにみとれてしまうのだった。しかし、その、人形の様にも雪の輝きの様にも見える白さは、時折ふっと、この世のものではないような、何か触れてはいけない禁忌のようなものを感じさせた。私はもしかしたら、彼女の浮世離れした美しさに畏れさえ抱いていたのかもしれない。何度か彼女が気さくに話しかけてくれたことがあったが、私はいつも、彼女に近寄ることができなかった。
通りに面した窓から、彼女の仕事場である、ピアノが置いてある部屋が見えた。私が家へ帰る頃には、彼女が真面目な顔で小さな子供に指使いを教えている様を横目で眺めることができた。また、授業が早く終わった昼頃などは、一人で鍵盤に向かっている様子も見受けられた。音は殆ど聞こえてこなかったが、その白くて細い指が軽やかに動く様から、さぞ優美な曲を弾いているのだろうと思われた。その家の前を通る事は、私の密かな楽しみの一つとなっていた。同じ学校に通う少女達よりも落ち着いた、大人としての魅力を持った彼女に、憧憬していたのである。
彼女は、遠くから見てもはっきりと分かるほどに色が白かった。私の住む街は涼しく、冬が長いほうなので色の白い人はたくさんいたが、彼女ほど白い人を見た事はない。
淡い憧れを抱いたまま月日は過ぎ、私は二年生になった。その春先に、妹がピアノを習いたいと言い始めた。妹は私と三歳違いの中学二年生で、前年行われた校内の合唱コンクールでピアノを弾いた同級生が、輝いて見えたのだと話した。今まで習い事が続いた試しがない上、家にピアノを置くだけの余裕はないと母は反対した。しかし、頑固な妹は、家にピアノを置かずとも先生の家で練習すれば良いと強引に押し切り、次の月から習いに行くことになった。夕方出かける妹のために私が送迎につくことになったが、歩いて数十分の道のりを何度も往復することは徒労に思えた。そこで、母を通じてピアノの先生に掛け合ってもらい、妹の練習の間、先生の家にいさせてもらうことになった。勉強道具を持参すれば良いのである。言うまでもなく、そのピアノの先生というのが、色の白い彼女だった。
そうして私は、それまで眺めるだけだった彼女と、近付くことができた。しかし、図体ばかり大きくなっても根は子供であった私は、彼女と挨拶以上の言葉を交わせはしなかった。彼女は妹と私を笑顔で出迎えてくれ、クッキーまで出してくれた。妹がたどたどしく鍵盤に手を置くと、その位置をそっと直し、何でも良いから音を出してごらん、と優しく言った。私はそうした一部始終を、部屋の隅に置かれた机に向かいながら、聞くでもなく聞いていた。
初めの日は、音の場所と音色を確かめて終わった。彼女は妹の耳が良いとしきりに褒め、玄関まで出て見送ってくれた。道を照らす夕陽を背に受けたせいで彼女の姿は暗く見えたが、それでも彼女の色の白さは目に明るかった。その白さが、家に着いても目の中に残っているようだった。
「お兄ちゃん。先生、雪女みたいに真っ白だったね」
家に着いて早々、妹はそう言ってあどけなく笑った。雪女。確かにそれは、彼女の白さを表現するには的確な言葉であるように思えた。だが、それは同時に、あまりに残酷な響きでもあった。昔話に出てくる雪女の悲しい運命を、妹は知らないのだろうか。
週に一度、妹と私は彼女の元に出かけた。妹は合唱コンクールの演奏の座を獲得するのだと張り切って、練習に精を出していた。彼女も、熱心に指導してくれていた。
彼女の肌の色は、本当にいつ見ても白かった。顔は言うに及ばず、服の襟元から覗いた細い首筋も、黒い髪に縁取られて眩しいようだった。彼女はいつもシンプルな落ち着いた服装をしていたが、その質素さがかえって彼女の美貌を引き立たせているようにも思えて、私はいつも、その白さと美しさにみとれてしまうのだった。しかし、その、人形の様にも雪の輝きの様にも見える白さは、時折ふっと、この世のものではないような、何か触れてはいけない禁忌のようなものを感じさせた。私はもしかしたら、彼女の浮世離れした美しさに畏れさえ抱いていたのかもしれない。何度か彼女が気さくに話しかけてくれたことがあったが、私はいつも、彼女に近寄ることができなかった。