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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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わたしの声がきこえる

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 将来。その単語に、やわらかいところがぎゅっとつままれるような痛みをおぼえた。あわれみとあざけりの入りまじった、あの六つの目のかたちと色がよみがえる。未知の可能性があるということは、つまり将来があるということだ。七緒や睦子やあの三人の女子高生たちの人生には、間違いなくそれがそなわっている。まだ十代後半という若い年齢で、この先新しい世界に飛びこむ機会がいくつも用意されているからだ。それに比べて、私はどうだろう。最後に待ちかまえている、いちばん大きな「社会」という世界で挫折を経験した私に、まだ見ぬ可能性などというものがはたして残されているのだろうか。仮にあったとしても、それに未来をたくす勇気が私にあるだろうか。そもそも、限りなくまっさらな状態の彼女たちと私では、状況がまったく異なっている。重ねあわせようとすること自体、おこがましいことだったのだ。
 二人はいつの間にか、勉強を放り出して、大人になったらどんな生活がしたいかという話題で盛り上がっている。何とかというブランドの洋服を着て通勤したい。猫を飼いたい。やさしくて知的な上司と恋愛して、結婚したい。そこまで聞いて、私は椅子から立ち上がった。
「いやーいいなあ若い子は、将来があって! おばちゃんうらやましいよー」
 軽い調子で言ったつもりだったのだけれど、七緒にはその言葉の裏を読み取られてしまったようだった。少し困ったような、悲しい顔をして、私を見ている。一方睦子は、何を言っているのかわからない、とでもいうように、眉根をちょっと寄せている。しかめっつらでも、きれいな顔はきれいなままなのだな。そんなことを考えていると、
「みちるさんには無いんですか? 将来」
 睦子の質問が胸を刺す。あるわけないじゃない。そうはっきりと答えようとしたはずが、のどは何かがつかえたかのように動かない。「ナナちゃんや睦子ちゃんよりはね」とごまかすように言うと、睦子はにっこりと笑った。「無いわけじゃないってことは、あるってことですね。よかった」
 家路をいそぎながら、私は、よくわからなくなっていた。まったく無いわけではない、という程度のものを、「ある」と言い切ってしまっていいのだろうか。それを信頼し、活かすことができないならば、あってもなくても同じなのではないか。だいたい、睦子にあのようにたずねられて、私はなぜ「無い」と言いきれなかったのだろう。「ある」と思い込もうとしたせいなのか、あるいは、「ある」という事実を心のどこかで感じ取っていたせいなのか。消えきらずにのこった昼間の熱気が、手足をからめとってゆくような夕暮れどきだった。

 将来。それはいったい、なんなのか。私にはあるのか、無いのか。あったら、無かったら、私の人生はどうなってゆくのか。その疑問は、まるで背後霊のように私の背中にぴったりと寄り添い、ささやきかけてくる。そして、私の仕事の休憩時間や睡眠時間を食料にして、ぶくぶくと肥大し続けていた。
「この間なんて、歩いていた道がとつぜん途切れて、下に落ちていっちゃう夢を見て目が覚めたんですよ。ほんと最悪」
 休日の朝、ハチヤのカウンター席でサンドイッチにかじりつきながら、私は亮太を相手にぼやいていた。平日の午前九時、開店して間もないうちは、ここもお客がほとんどいない。そんなとき、彼はときどきこうして、仕事をしながら私の話に付き合ってくれる。亮太は焼きたての食パンを棚にならべながら、将来なあ、とひとりごとのように言う。その声はマスクごしだけれど、私たちの他には誰もいないので、きちんと私の耳まで届く。
「小学生のころ、将来の夢について作文書かされだりしたっけなあ。けど、中学高校さあがったら、志望校やら偏差値やらそんな話ばっかりになって。で、大学行ったら行ったで、今度は就活だべ? おれは専門だったがらあんまり関係ねがったけど」
 やっぱり、彼は幼いころからパン屋になるのが夢だったのだろうか。たずねてみると、少し意外な答えが返ってきた。
「夢っていうが、父ちゃんの仕事継ぐのが当だり前だど思ってらったがらなあ。父ちゃんと離れでからはいろいろ考えだりもしたけど、結局忘れられねがったんだよな。おれは大学じゃねくて専門さ行ぐって決めだとぎに、はじめてパン屋が自分の夢さなったんだど思うよ」
「じゃあ、亮太さんの夢はもう叶ったってことですね」
 いやあ、そういうわげでもねえんだな。彼は愉快そうに、目だけで笑ってみせる。
「おれもな、父ちゃんの店継いで、パン屋として生ぎでいげたらそれで十分だど思ってらった。しかし、人間っつうのは困った生ぎ物でな。もっと美味いパン作りでえどが、もっと父ちゃんのパンを有名にしでえどが、欲がどんどん出でくるのな。なんだかんだ言いながら、それでもついできてける母ちゃんには感謝しねばな」
 そのとき、からんからんと扉のベルが鳴って、近所のおばさんたちが入ってきた。けして広くはない店内は、それだけでとたんににぎやかになる。「あらりょうちゃん、今日も男前だごどー」などと声をかけられて、亮太もいつものさわやかな営業スマイルをうかべている。イートインのサービスのコーヒーを飲みほして席を立ち、おばさんたちに囲まれる亮太に軽く会釈をして、店を出た。
 彼がうらやましいと、素直にそう思った。まっすぐ、ただひたすらに同じ方向を見つめて進む亮太は、まぶしいくらいにかがやいている。おそらく、亮太にとっての将来というのは、夢をもって生きるかぎり存在しつづけるものなのだろう。これといった夢のない私には、あてはまらないのが残念だけれど。
 後日、マンチカンで千恵と開店作業をしながら同じ話題をふってみた。彼女は、「将来とは覚悟のことだ」という。現在より先の時間のことなんて、闇にとざされているようなもので、飛びこんでみなければ何もわからない。道かもしれないし、崖かもしれない。そのどちらであったとしても、前だけを見すえて歩きつづける覚悟があるかどうか、それが肝要なのだそうだ。
「私、大学生のときにマンチで働きはじめたのよね。就活でいくつかの会社から内定もらったころに、社員にならないかって言われたときは、まさにその覚悟を問われてると思ったよ。長いこと悩んだけど、ここの仕事がやっぱり面白かったからね。まあ親にはいまだに心配かけてるけど」
 飛びこんだ先は、道でしたか? それとも崖でしたか? そうたずねると、千恵は「けもの道だったねえ」と大きな声で笑った。
「のぼったりおりたり、落ち着かないけど、山登りみたいで楽しいよ」
 たったひとつの単語から、ここまでちがう話が出てくるのかと思いながら、私は彼らにある共通点を見いだしていた。それは、自分の心の声に耳をかたむけて、自分が本当に求めているものは何なのかを見きわめようとしているところだ。彼らはみな、けして深刻そうに語ることはないけれど、私の想像する以上に悩み、周囲とぶつかって苦しんだ経験があるはずだ。それでも前だけを見て進んできたのは、ひたすらに自分を信じているからではないだろうか。自分が自分を幸せにするのだという、折れ曲がることのない信念が、その体の中心にまっすぐとおっているのだ。