わたしの声がきこえる
先週、千恵と閉店作業をしながら、私は彼女に社員登用についての話を聞いた。マンチカンでは、新卒採用というものをおこなっていない。社員になるためには、アルバイトから始めて経験を積み、昇格するしか方法がないのだそうだ。私はまだ働き始めて間もないし、それについて具体的に考えることはできない。にもかかわらず、胸の高鳴りをおさえきれなかったのを今でもはっきりと思い出せる。つい数ヶ月まで考えもしなかった人生の選択肢が、今目の前にたしかにあるということに舞い上がってしまったせいだろう。千恵は、出かけるたびにたくさんの資料をかかえて戻ってきて、それらを私にも広げて見せてくれる。そのたび、危なっかしく宙に浮く自分の心に、私は強く言い聞かせる。マンチカンの社員になるかならないかが、問題なのではない。ここで働く時間を無駄なものにしないように、今は気を引き締めて、もっともっとたくさんのことを吸収していかなくてはいけないのだ、と。
笑い声とともに、ばたばたと店内へかけこんでくる足音が聞こえたので、ディスプレイの上におおいかぶさっていた体を起こして「いらっしゃいませ」という。お客は、灰色の制服を身につけた女子高校生の三人組だった。私の姿など見えないかのように、甲高い声をあげながら、商品をいささか乱暴につかんでは戻している。はらはらしながら見守っていると、彼女たちは、壁にとりつけたいくつもの小さな箱の中にかざられているピアスに目をつけた。可愛いー、でも金ないー、でも可愛いー。美香つけてみればー? えーまじでー。ひときわ大きな声でそんなことを言い合いながら、ピアスを台紙からはずし、鏡を見ながらその耳へもっていこうとしたところで、あわててそばに駆け寄った。
「お客さま、申し訳ございません。衛生上ピアスのご試着はご遠慮いただいております」
彼女たちは、それまできらきらとふりまいていた笑顔をまたたく間にひっこめて、いっせいに私のほうを見た。
「すみませんでしたあー」
ほんの少しの間のあと、ひとりの子が気だるそうに言い、商品を棚にもどす。あとの二人も無言でそれに続く。出口に向かううしろ姿を「ありがとうございました」と見送って、私は軽く息をついた。ファッションビルという施設の性質上、マンチカンにもさまざまなお客がやってくる。駅に近いということもあり、中高生などもよく出入りするので、このくらいのことは日常茶飯事だ。しかし、見ず知らずの相手に注意をするというのは、精神的力を削りとられる感じがして、私はあまり得意ではない。こんなふうに必要にせまられることがないかぎり、やろうなどとは思わないだろう。
彼女たちが触れたあとのディスプレイをととのえていると、通路のほうからぼそぼそと低い声が聞こえてくる。顔をあげてそちらに目をむけると、先ほどの女子高生たちだった。この店の出入り口に面したところに置かれたベンチに腰をおろして、頭をよせあい、こちらを見ながら話をしているようだ。私の視線に気がつくと、真ん中の気の強そうな女の子がふいに立ち上がった。
「つうか、あのトシでバイトとか、まじ将来ないよね。あたしだったら絶対にいや」
それが、私のことを指して言っているのだとわかったとき、彼女たちはすでにそこからいなくなっていた。将来ないよね。それは私を傷つけるためだけの、ただの嫌がらせの言葉だということは、よくわかっていた。けれど、それはまるでたちの悪い呪いのように、体の内側にべっとりとはりついてしまっていた。
帰り道、よろめく足どりでハルタへ寄ると、めずらしく汲子が店先に立っていた。七緒は定期テストが近いため、睦子に勉強を教わっているのだという。
「奥のテーブルさいるよ。お茶いれてらがら、みちるちゃんも休んでいって」
「すみません、ありがとうございます」
あまり物音をたてないように本棚のあいだをぬけてゆくと、ペンを握って問題集をにらみつける七緒と、それをちらちらと気にしながら本を読む睦子が並んで座っているのがみえた。
「あ。みちるさん、こんばんは」
先に気がついたのは、睦子のほうだった。その声に七緒があわてて立ち上がり、「お茶いれますね」というのを、自分でするからと押しとどめた。
「テスト勉強中なんでしょ? 私はちょっと寄っただけだし、集中力切れさせるのも悪いから」
向かいの席についた私に、睦子が「でもねみちるさん」と話しかけてくる。
「この子、とりたててテスト前に勉強する必要なんてないんですよ。教えてほしいっていうから付き合ってるのに、わからないところなんかほとんどなくって」
「そんなこと言うけどさ、学年トップのむっちゃんとは天と地の差だもん。知恵を借りたくなるのは当然だよ」
納得がいかない様子の七緒に、彼女はきっぱりと言った。
「それはナナに向上心があるからだよ。それがない人は、身の回りに自分を成長させてくれるものがどれだけあっても気がつかないものなの。ナナはもっと成績を伸ばしたいと思ってる。そのために、私に勉強を教わるっていう方法を見つけて、それを選びとった。そういうことでしょ」
そこまで一気に言うと、睦子はふとやわらかい表情をつくって、こう問いかける。
「で、なんでそんなに勉強して成績を伸ばそうとしてるのか、そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」
七緒は照れたように睦子から目をそらすと、小さな声で「まだ内緒」とつぶやいた。えーなんでよう、と睦子が彼女の肩をゆさぶるのをながめながら、私は少しおどろいていた。はじめてこのハルタブックスをおとずれたとき、私は七緒に、夢はあるかとたずねた。あのとき彼女は、間髪いれずに「まだよくわからない」と答えた。しかし今、睦子に同じような質問をされたときの、あの反応。あれが、答えをごまかすためのものとはとても思えない。あれから月日が経って、彼女の中にも、夢のようなものが生まれているということか。
七緒に打ち明ける気がないとわかって、睦子はようやく手を離した。
「仕方ないなあ。私の夢はもう話したんだから、ナナのもいつかちゃんと教えてよね」
「睦子ちゃんはやっぱり、お医者さん?」
たずねてみると、彼女はこちらにまっすぐ向き直って、「いえ、出版社に勤めたいと思っています」と答えた。実家は東京の大学の医学部に通っている兄にまかせて、自分は本当にやりたいことをやろうと決めているのだそうだ。しかし両親は、彼女にも医療にかかわる仕事をしてほしいと言っているので、卒業後の進路について話し合いをするのが少しゆううつなのだという。
「編集者になりたいなんて言ったら、きっとすごく反対されます。でも、そんなふうに私の道を狭めないでほしいんです。両親にも、私自身にもまだ見えていない可能性に、将来をかけてみたいんです」
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ