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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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わたしの声がきこえる

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 今の私を支え動かしているのは、しいて言うならば、お客さんの笑顔だ。お客さんが満足していることが感じられると、自分はここにいてもいいんだと思えるからだ。けれどそれは、この先も生きつづけてゆくための力にはなりえない。幸せの一種であることは間違いないけれど、それは自分ではない誰かが直接的にかかわることで初めて生まれるものだからだ。そこまでたどり着けたら、きっと自分は幸せになれる。そう思える夢や目標を、私は私ひとりで見つけなくてはならない。それができなければ、きっとまた同じように他人の言葉に傷つけられ、折れて揺らいでしまうだろう。
勤務が終わり、従業員出入り口の扉を開けかけたとき、とつぜん「みちるさん」と声をかけられた。声のした方向を見やると、グリーンのワンピースを着た品のいい女の子と、Tシャツにロングスカートというラフな格好の女の子ふたりが、しょぼくれたような顔をして立っている。よく見ると、それは睦子と七緒だった。今日は日曜だから、私服で来たのだろう。
「あの、今日はもうあがりですか」
「そうだけど、どうしたの? ふたりでお店に来るなんてめずらしいね」
 そこまで言って、気がついた。あの将来の話をして以来、私はハルタに行っていない。考えごとばかりして、仕事のあとに寄り道をすることがなくなっていたのだ。
「お話したいことがあるんですが、お時間いただけませんか」
 睦子が消え入りそうな声で言う。その内容はだいたい検討がついたけれど、私は彼女の肩をぽんぽんとたたいて、後ろでくちびるを噛んでいる七緒に笑いかけた。
「うん、大丈夫だよ。それじゃあ、どこかでお茶でもしよっか」

 アスカの最上階は、カフェになっている。注文を終えて奥のソファ席に座ったとたん、睦子がきりだした。
「みちるさん。あの日、無神経なことを言ってしまってごめんなさい」
 彼女にとって将来という言葉は、単に「これから先の時間」くらいの意味だったのだそうだ。あのとき私が、将来は若者にしかないものだととらえられるようなことを言ったために、それに対して違和感をおぼえて「みちるさんには無いんですか」というふうに聞いてしまった。それがおかしなことだとは思っていなかったのだが、私が帰ったあと、七緒に説教されたのだという。
「みちるさん、ごめんなさい。私、むっちゃんに話さずにいられなくなっちゃって……」
 つづいて口をひらいた七緒は、半泣きになっている。私とはじめて会った日のことを、彼女はよくおぼえていた。私が、東京から実家へ帰ってきたということ以外は口をつぐんだことも、将来の夢について彼女にたずねたことも。具体的に何があったのかはわからないけれど、私がそういった話題についてなにか事情をかかえているということを、七緒は感じとっていた。それらについて、彼女は睦子にすべて話したのだという。
「むっちゃんの言葉のどこが、どんなふうにいけなかったのかはわかりませんでした。けどあのとき、みちるさんの心がいやな方向に揺らいだのはわかったんです。だから、今度みちるさんがハルタに来てくれたら、一緒に謝ろうって話してたんです」
 しかし、何日すぎても私はハルタにあらわれない。睦子の一言で、よほど傷つけてしまったのかもしれない。それならばと今日、私の仕事が終わる時間を見はからってやってきた、というわけだ。
「それが本意でなかったとしても、みちるさんに不快な思いをさせてしまったことは変わりません。でも私たち、みちるさんとのつながりがなくなってしまうのは嫌なんです。だから」
「あの、ごめん、ちょっと待って。私、傷ついたりしてないし、ふたりに対する気持ちも前と何も変わってないよ」
 言葉をさえぎられた七緒は目を数回しばたたかせ、うつむいて体をちぢこめていた睦子は、前髪がみだれるほどのいきおいで顔をあげた。
「えっ、じゃあどうしてハルタに来なくなっちゃったんですか!」
 私は、あの日からずっと「将来」というものについて考えていたこと、考えこみすぎていつも帰りに寄るはずのハルタの前を通りすぎてしまっていたこと、そしてようやく自分のやるべきことが見えてきたことをうちあけた。
 ほっとしたようにため息をつく七緒の横で、睦子が「私、みちるさんのこと誤解してました」と小さな声で言う。
「みちるさんは本当にやりたかった仕事をしながら、趣味もつづけていて、理想の生活を実現している人だと思ってました。迷いがなくて、ぶれていなくて、うらやましいなって思ってたんです」
 でも、と、彼女はまっすぐに私の目を見つめる。黒くみがかれたひとみの奥に、水面にうつる月のようなきらめきがふるえている。
「周りを気にしたり、先のことで悩んだり、私たちとほとんど変わらないんですね。遠いと思っていたのに、案外近い場所にいるってことがわかって、今すごくうれしいです」
 その頬がいつもよりあざやかな桃色をしているのに気がついて、思わず笑みがこぼれた。七緒は何もいわずに、ただうなずいている。この子はきっと、私が大人の皮をかぶった空っぽの人間だということを、ずっと前から知っていたのだ。そうでなければ、こんなおだやかな表情で今の睦子の言葉を聞けるはずがない。グラスの中の氷がくずれるかすかな音がして、誰からともなく飲み物に手をのばす。七緒と睦子は、カフェオレを口にしたとたん「あ、おいしい」「ほんと」と声をあげる。
「ここね、焼き菓子もすごくおいしいの。ちょっと買ってくるね」
 ふたりが止めようとするのを聞こえていないふりをして、私はうきうきと席を立ち、注文カウンターへと向かったのだった。

 クッキーをかじりながら、他愛もないおしゃべりに興じて家に帰ってくると、ちょうど父が車から降りてきたところだった。
「あ、お父さん。ただいま」
「おお、おがえり。遅がったね」
玄関を開けると、すでに夕食の味噌汁の香りがただよっていた。キッチンに立つ母に、ただいま、と声をかける。
「あら、おがえり。ご飯すぐ食べられるがら、手え洗って着替えできなさい」
「はーい」
 父は市役所につとめていて、母は車で少し行ったところにある弁当屋でパートとして働いている。今まで考えたこともなかったけれど、彼らにも、思い描く将来像のようなものがあるのかもしれない。
「お父さんとお母さんは、将来のことって考えたりする?」
 麻婆豆腐を小皿によそいながらたずねてみると、母は「そりゃあ考えるわよ」という。
「母さんだって、今のお弁当屋さんにずっと雇ってもらえるどは限らないし、父さんだってあと五年ちょっとで定年だもの」
 母は今の職場にもう十年以上つとめているけれど、売り上げが落ちて経営がきびしくなってきているのだという。スーパーの惣菜づくりとか、次の目星はつけでおいだほうがいいかもしれないね。感傷にひたるような様子もなく、からりとそんなことを言う。そういえば昔から、彼女が仕事や人間関係について悩んだり愚痴を言ったりするところを、私はほとんど見たことがない。
「あとはあんたがきっちり再就職して、結婚でもしてくれだら安心なんだけど」
 母は本当に、私の痛いところをつくのがうまい。どう答えようか迷っていると、もの静かな父が口をひらいた。