わたしの声がきこえる
私は汲子に、積極的に七緒の力になろうとするのではなく、そばでおだやかに見守って、もしも彼女がのっぴきならない状況におちいった時にはおしみなく手を貸したいという旨を伝えた。汲子は、それまでのうすくかたいものを張りつけたような表情を解いて、ありがとうね、とほほえんだ。それ以降も、職場へ向かう途中や帰り道、休日の町中などで別人のような七緒を何度も見かけたけれど、声をかけることは一度もしていない。彼女がこちらに気がつかないように、そっとその場をはなれるようにしている。
レジのそばの「今日のおすすめ」コーナーに置かれた、美しい鉱石の写真集をながめながら七緒と立ち話をしていると、しずかに店の戸を開くきいっという音がすべりこんできた。七緒がぱっと顔をあげ、「いらっしゃいませ!」と言うのにあわせて、私もそちらをふりむく。夜のおとずれを告げるような紺色の制服に、ぼんやりと光を放つ髪と肌。それはまさに、私の出会った、あの美しい女子高校生だった。
やっぱり実存する人間だったのだという思いと、まさかここで出会うなんてという思いとで、私は彼女から目を離せないでいた。彼女はその場にじっと立ったまま、前を見すえている。その視線にとらえられているのは、わたしではない。七緒だ。
「あの、もしかしなくても、神原七緒さんだよね」
そのはかなげな桜色のくちびるの間から出たものとは思えないくらい、芯のとおったまっすぐな声がひびく。彼女に呼ばれた七緒をそっと見てみると、青ざめてかたまった頬を無理やり動かすように、ぎこちない笑みをうかべていた。
「佐伯睦子さん、だよね。何か本を探しに来たの?」
「ううん、偶然本屋さんを見つけたから立ち寄ってみただけ」
「そっか。ゆっくりしていってね」
そう言って七緒が彼女に背を向けたとき、さっきよりもさらに大きく、まるで矢のように、次の言葉が飛んできた。
「神原さん。アルバイトは、校則で禁止されてるよ」
ふたりがお互いの氏名を知っていることを気にとめるひまもなく、今度は私の顔から血の気が引く番だった。今まではっきりとたずねたことはなかったけれど、私の母校は、私が生徒だったころと変わらず、アルバイトをしてはいけないことになっているのだ。他人のいる場でこれだけはっきりと指摘したからには、彼女はきっと、このことを学校に伝えるつもりなのだろう。校則に違反したとなったら、七緒はいったいどんな罰を受けるのだろうか。停学か、もしかすると退学か。とにかく、大人の私が何か言わなくてはと思い、からからに乾いた口をひらいたとき、火花のはじけるような声がこだました。
「お願い、誰にも言わないで!」
はじめて耳にする、七緒の大声だった。「サエキさん」は不意をつかれたように目をぱちぱちとさせたあと、軽くほほえみをうかべた。
「やだ、告げ口してやるなんて言ってないじゃない」
でも、どうしてもだまっていてほしいっていうなら、そうだなあ。彼女は少しの間考えこんでみせたあと、七緒にこう告げたのだ。
「神原さんが私に読んでほしいと思う本。それを紹介してくれたら、秘密にしてあげる」
睦子と七緒は、高校のクラスメイトだった。あれだけ特徴を伝えたのになぜわからなかったのかと、私は思わず七緒を問いただしてしまった。学校での睦子は髪をうしろでしっかりと結わえて、メガネをかけているので、それほどまでの美人だとは気がつかなかったのだそうだ。七緒はあのあと、猫にまつわるエッセイ集を棚からとりだしてきて、その味わい深さをしずかに語った。睦子は満足したように、それを一冊買って帰っていった。学校でのふたりの関係は、それまでとくらべて特に変化はないそうだ。しかし、その代わりというべきなのか、睦子はこのハルタブックスにたびたび姿をあらわすようになった。彼女は、アスカの裏手にある佐伯内科医院の長女なのだという。あの日はたまたま、放課後にパンのハチヤで買い物をしてきてほしいと家族にたのまれていたために、この西口の小さな商店街にやってきた。するとそこに雰囲気のよさそうな書店を見つけたので、入ってみたところ、同級生がエプロンをつけて働いていたというわけだ。校則がどうのという言葉は、脅すつもりなどではまったくなく、動揺のあまり口をついて出てしまったのだそうだ。しかし、学校では必要最低限の会話しかせず、休み時間は本を読んでばかりの七緒が感情をあらわにするのを目の当たりにして、彼女は神原七緒という人間に強い興味をいだいた。そして、このことを利用して距離をちぢめることはできないだろうかとつい考えてしまったのだ、と。睦子は週に三度ほど、かならず七緒の働いているときにハルタにやってくる。そして前回七緒にすすめてもらった本の感想を述べ、いくつか意見を交わしたのち、新しいおすすめの本を紹介してもらって帰っていく。滞在は長くても一時間程度のようだ。店主の汲子とはすぐに仲良くなったらしい。私と顔をあわせることもあるし、そのときは少し会話をしたりもするけれど、たいていは入れ違いになる。
七緒はというと、はじめは混乱し、戸惑っている様子だった。それはおそらく、ほとんど交流のなかったクラスメイトがこのような形で自分に近づきたいと思っているらしいということと、本のことになると自分の心はつい無防備になってしまうのだということに対するものだろう。すすめられた本をすぐに読み、その作品の魅力について熱心に語る睦子に、彼女の心はたしかに動かされていた。睦子がハルタにやってくるのが当たり前になったころ、ふたりはお互いをナナ、むっちゃんと呼び合うほどの仲になっていた。
おだやかな春はあっという間に終わりを告げ、少し雨の降る日が多いなと思っていると、夏がもうすぐそこまでやってきていた。アスカの館内は冷房があまりきいていないので、ちょっと集中して仕事に取り組んだだけで、顔や手に汗がにじんできてしまう。
週に五日、マンチカンで働くようになって、三ヶ月が経つ。基本的な仕事はだいたい身についただろうという店長の判断で、開店から閉店まで店をまかされる日も増えてきた。千恵はこのところ、県内に暮らしている作家さんに会いに行ったり、仙台でおこなわれている本社の勉強会などにも積極的に参加している。それはこの店や、彼女自身のためでもあるのだろうけれど、おそらく、私のためでもある。
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ