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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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わたしの声がきこえる

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 千恵さんというのは、このビルの三階フロアのすみにひっそりとたたずむアクセサリーショップ・MUNCHKIN(マンチカン)の店長をつとめる三〇代の独身女性のことだ。さばさばした性格が汲子に少し似ているけれど、言葉はきれいな標準語だし、バランスを計算しつくされたメイクで、実際の年齢より五歳は若く見える。十日ほど前から、私は彼女のもとでアルバイトとして働いている。
 接客業に挑戦してみよう。そう決めて、この町の求人情報を調べ始めたとき、私はその種類と数の多さにぎょっとした。アパレル、雑貨、カフェ、何でもある。詳しく見てみると、そのほとんどが、この駅前ファッションビル「アスカ」のテナントのものだということがわかった。東京でもよく見かける店舗名ばかりが並ぶなか、このマンチカンという看板だけは見覚えがなかったので、どんなところか見てみようという好奇心だけでおとずれた。それが、つい二週間前のことだ。
 そこは、何か手違いで生まれてしまったデッドスペースに押しこまれたのでは、などと勘ぐってしまうほど、本当に小さなショップだった。けれど、その狭さがむしろ、店の雰囲気を際だたせるのに一役かっている。うっそうとした森を思わせるフェイクグリーンが、壁や棚にたっぷりとあしらわれている。そして、その合間に身をひそめる動物のように、ネックレスやブローチ、ピアスなどといったアクセサリーが陳列されているのだ。それぞれの金額はけして低くはないけれど、作りがとても細かく、商品をていねいに紹介するポップもついている。インターネットで店名を検索してみると、仙台市に本店があった。マンチカンは、ただのアクセサリーショップではなく、日本じゅうで活動しているアクセサリー作家の作品をセレクトして販売しているのだそうだ。今年の初めころから、宮城県以外にも店舗をもつようになったらしい。千恵はもともと本店のスタッフだったのだが、新店舗の店長を任命されたためこの町にやってきたのだという。
 アルバイト募集の広告を見たのですが、と声をかけたとき、彼女はきれいな目をきょろりとさせて私をながめ、手わたした履歴書を開いてながめると、ひとことだけ「どれだけ働いてもらっても、時給は上がらないけど、いい?」とたずねた。広告に出ていたこの店の時給は、この地域の最低賃金ぎりぎりだった。大手のチェーン店のそれとはずいぶん差がある。はい、と私ははっきり答えた。応募する前から、それはほとんどわかっていたことだったし、ここで働く目的はお金を稼ぐことではなかったからだ。千恵はそのとき初めてにっこりと笑みをうかべて、「おっけー。採用」と握手を求めてきた。レジカウンターの前、たった五分で、アルバイトの面接は終わってしまったらしい。ありがとうございます、と言いながらおずおずとにぎったそのきれいな手は、かたく、じんわりとした熱をはらんでいた。
 仕事そのものは、それほど複雑ではない。開店準備を終えたら、ディスプレイの乱れを直したり、新しく入荷した作品にタグをとりつけたり、伝票の計上などをして過ごす。お客が来たら、「いらっしゃいませ」と最低限の挨拶はするけれど、声をかけることはほとんどしない。この店の雰囲気を体感してもらい、好きになってもらうことがいちばん大切という千恵の意向だ。レジに商品をもってきたら、静かに、かつにこやかに、お会計をする。
ここへおとずれるお客の多くが、働きざかりの二十代から三十代くらいの女性たちだ。閉店まぎわに、大きなカバンをかかえたスーツ姿であらわれる人もいる。彼女たちはいつも疲労の重いかたまりを背負っていて、心なしか背すじが曲がり、足をひきずるように歩いている。けれど、買い物をするしないにかかわらず、店を出るころの彼女たちの体は、ほんの少し軽くなっているようだ。こわばっていた顔の筋肉もゆるんで、目には光が宿っている。週の半ばころ、徹夜明けのようなぼろぼろの顔であらわれたお客が、週末に見ちがえるほどきれいにおしゃれをしてふたたびやってきて、ピアスを三つも四つも買っていったなんていうこともあった。興奮のあまり千恵に報告すると、うちのお店ではよくあることよ、とさらりと返された。
「私たちの店はね、がんばる女性たちのための燃料を提供しているの。食べることや眠ることと一緒で、彼女たちにとっては、生活していくのに欠かせないものになってるのね。そう考えると、私たちの仕事ってとてもかっこいいって、そういうふうに思わない?」
 はい、と小さくうなずくと、彼女はふふふと笑う。接客中にはけして見せない、たしかな強さを内に秘めた、やさしい顔だ。
 平日の昼間は、正直いってひまだ。たのまれていた事務仕事も終えてしまったので、インターネットで作家さんたちの新作商品などをチェックしてすごす。千恵はテナントの店長会議に出席しているのだけれど、終了予定時間をもう一時間もオーバーしている。私の退勤時間も少しすぎてしまった。今日の仕事のあとにすることといえば、取り置きしてもらっていた本を買いにハルタブックスに立ち寄るくらいなので、一向にかまわないのだけれど。いったい何を話し合っていて、そんなに長引いているのだろう。
 そのとき、かたい靴のかかとが床にぶつかる、ことんという音がしたのであわてて立ち上がる。いらっしゃいませ、という私の言葉にふりかえった彼女の姿に、私は思わず息をのんだ。長くて黒い髪をなびかせた、それは美しい女子高校生だった。白い肌に、下を向いた長いまつげがとても大人っぽい。しかも、身につけているその制服は、私の母校のものだ。ということは、ハルタブックスの七緒と彼女は、まさに今同じ学校に通っているということではないか。こんなにきれいな子なら学校でも有名だろうし、七緒も知っているかもしれない。
 彼女は店の中を少し行き来すると、ブローチをひとつにぎってレジにやってきた。ちょっとまぬけな猫の顔が刺繍された、布製のものだ。会計をすませ、小さな袋にいれたそれを手渡すと、彼女は少し恥ずかしそうに会釈をして、足早に通路のほうに出ていった。その方向を見やりながらぼんやり立っていると、フロアの従業員出入口から千恵がとびだしてきた。ほんっとごめん、と平謝りする彼女をなだめながら、私は、「あの子はもしかして、夢やまぼろしだったのかもしれないな」などと、おかしなことを思い始めていた。

 ハルタに行くと、七緒が元気にむかえてくれた。平日はいつも制服の上からエプロンをつけて働いているのに、今日はあざやかなブルーのTシャツを着ている。聞いてみると、今日は先生方の都合でお昼すぎには放課になったので、一度帰って着替えてきたのだという。そういえば、あの子はなぜ平日の昼間に堂々と制服姿で買い物をしていたのだろうと思っていたけれど、そういう理由なら納得がいく。
「そういえばナナちゃん、学校にすごくきれいな女の子いない? 髪が背中くらいまであって、すらっとしてて、色白で、たぶんかわいいものが好きだと思うんだけど」
「んー、特に思い当たらないですけどね。名前とか学年とかはわからないんですか?」
「うん、そこまではちょっと。今日買い物していったお客さんなんだけど、本当に美人だったから、なんだか気になっちゃって」