わたしの声がきこえる
そうはっきりと口にした。あの年の三月十四日、私は友だちと遊びに出かけていた。お返しをもらえるなどとは思ってもいなかったのだ。帰宅して、机の上の小さな包みを見つけた時は、それはおどろいた。年上の男の子にあげるなんて聞いてなかったよお、と母にからかわれたのも、ひどく恥ずかしかった。
私たちは距離をたもったまま、ぽつぽつと言葉をかわした。彼がこの町から引っ越した理由は、両親の離婚だった。彼は北海道に実家があるという母親に連れられていき、父親はこの町に残ってパン屋を営んでいたのだという。そういえば、この通りには小さなパン屋が一軒あった。私は、彼の家がこの通りにあるということは知っていたけれど、具体的にどの家がそうであるかは知らなかった。まして、それがあのひっそりと建つ店屋だなどとは思いもしなかったのだ。そのことを正直に話すと、彼は「マジがよー」とおかしそうに笑う。ついさっき目の前で見た営業スマイルと、それはまったくちがうものだった。彼の父親は過労か心労か、離婚から二年ほど経ったころ突然亡くなり、店は継ぐ者が誰もいなくなって閉店してしまった。しかし、北海道で調理技術を身につけた彼がそれを復活させたのだ。いちおう店主ということになってはいるけれど、母親に頼ってしまう部分がまだまだ多いのだと、彼は頭をかいてみせる。
舌の上に残ったチョコレートの苦味を感じながら、私はあのころを思い出していた。彼はいつも時間ぎりぎりに、集団登校の待ち合わせ場所に走ってやってきた。すでにみんなが揃っているところに飛び込むようにして、「おはよう!」と大きな声で言う。みんなは口々に挨拶を返し、「お前いっつも遅いんだよー」などと言いながら並び、小学校に向かって歩き出す。私は体も声も小さかったので、みんなと同時に挨拶をしようと思っても、まぎれて聞こえなくなってしまう。だから、決まり通り彼の前に並んだときに少しだけ振り返り、「りょうちゃんおはよ」と言うことにしていた。その時に彼が「みっちゃんおはよう」と、名前を呼んで挨拶してくれることがとてもうれしかったのだ。そういえば彼は、いつもバターのいいにおいをさせていた。あの香りが今でも好きでたまらないのは、彼との思い出があるせいかもしれない。
肌にしみこんでくるような冷たい空気の中で、私の身体はとくとくと脈をうっていた。幾度となく意識の表面にのぼり、そのたびに反芻し、あんな感覚を味わうことはもうありえないのだと涙さえ浮かんでくるような、そんな体験が自分にあるというよろこびに、のどの奥が熱をおびてくる。泥ばかりと思っていた水の中の、そのいちばん底にあったのは、くだけた星のかけらだったのだ。それをまだこわれていなかったころの形に戻すことはできないし、その上に一度かさねてしまったものを取り除くことはできない。けれど、その上からさらに新しいものをかさねてゆくことはできる。そうすることでしか、生き延びてゆけないのだ。少なくとも私は、そうしてこの先も生きてゆくことを望んでいる。積み上げつづけて塔のようになったものが、くずれ落ちることはないだろう。なんたって私の土台は、美しく朽ちることのない、星のかけらでできているのだから。
彼と手を振りあって別れ、汲子と七緒のところに戻る。ふたりはパンをほおばりながら、店の入り口のわきのベンチに腰かけて私を待っていた。
「急に飛び出していぐからびっくりしたよお、パン買い足りねがったのかと思ったわー」
「あの、もしかしてみちるさん、やっぱり蜂谷さんとお知り合いだったんですか?」
子どものころ好きだった人、とつい正直に言ってしまうと、ふたりはきゃあと黄色い声をあげる。まるで女の子の仲良しグループのようだ。まるで自分のことのように頬を染める七緒の横で、汲子が内緒話をするように口のわきに手をあてて、
「はっちゃんのお母さん、どっかからお嫁さん来てもらえないべかーって心配してらったから、あの子たぶん彼女いねえよ!」
などと言い出すものだから、私は思わずふきだしてしまった。そんなんじゃないですよ、と言うと、えーなんでよと不満げにくちびるをとがらせる。高校生の七緒のほうが、「大人の女性にはいろいろあるんだよ!」なんて言うのでますますおかしい。このふたりとの出会いも、私の中でかさなる層のひとつになっていくのだろう。なんの根拠もないのに、そんなことがふとうかんだ。
七緒から荷物を、汲子から預けていたクッキーを受け取る。ファスナーが開きっぱなしのハンドバッグの中をのぞいて、この町へ着いてから携帯電話をまったく見ていなかったことに気がついた。二色のランプが点滅して、着信とメールがあったことを知らせている。確認してみると、前半は母から、後半は父からの連絡で履歴が埋まりかけていた。はじめは「まだ着かないのかな?」などと様子をうかがうような内容だったのが、「どうしたの? 何かあった?」「すぐ連絡しなさい」などと徐々に深刻になっていくのが、読んでいてなんだかおもしろくなってきてしまう。笑いをこらえて肩をふるわせている私を、ふたりが不思議そうに見つめている。そういえば父も母も、普段はあっけらかんとしているのに、いざ心配しはじめるとどこまでもエスカレートしていくたちだった。取り返しのつかないような大さわぎになる前に、家に帰らなければ。久しぶりに話したいことも、山ほどあることだし。
ちょうどまた母からの着信が入ったので、出てみる。「あんた今どこさいだのっ」という、なつかしい怒鳴り声が飛び出してきて、私はこらえきれずに笑い声をもらした。
* * *
音をたてて吹いてきた風が首のうしろをなで、私は思わずそこに手をやる。少しちくちくとするえりあしの感触には、まだ慣れない。通学や通勤の時間帯をすぎた駅前東通りは、つめたい空気がしずかに流れている。道の向こうから、同年代の男性や女性が、その中を泳ぐようにちらほらとやってくるのが見える。反対側で横断歩道の信号待ちをしている人も、何人か。赤やピンクのはなやかな洋服がかざられたショーウインドウは、中に入っておいでと手招きをしているようだけれど、ガラスの扉はまだかたく閉じられている。そのビルのわき道へ入り、裏へまわると、そこにはもうひとつの扉がある。それはおしゃれで明るい雰囲気の表とちがい、ところどころさびていて、ひどく重たい。力をこめてノブをひっぱり、中へすべり込むと、警備室の窓口の前には何人かの列ができている。そのうしろにつき、待つ間に、財布から入館証をとりだしておく。順番がまわってきたら、それを警備員に提示する。今月のはじめ、数年ぶりにこの駅前ファッションビルに足を踏みいれたとき、私はなんだか次元のちがう世界に来てしまったように感じた。働いている人たちの多くが、街中ではめったに見かけることのない、二〇代から三〇代前半くらいのおしゃれな男女だったためだ。なんだか、収容所みたいよねえ。千恵が笑いながらつぶやいた言葉が、耳の奥に残っている。
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ