わたしの声がきこえる
明るいながらもどこかひかえめな七緒とはちがい、汲子はぐいぐい距離をつめてくる。お名前は? 森末みちるさんね。おうちはどちら? ああ、あっちの奥のほう! 自転車屋さんのあるあたりだよなあ、という具合に。しまいには私の好きな作家や映画のタイトルなどを聞き出して、仕事用らしきメモ帳に書きとめはじめた。七緒は言葉の抑揚が東北弁だとわかるくらいだったけれど、汲子はそれよりもはっきりとなまっている。昔の私は、その地元の言葉がひどくやぼったい感じがして、あまり好きではなかった。けれど、今耳にする彼女のそれは、私のお腹にふっくらとひびく。
ふと、汲子はペンを動かす手をとめ、カウンターに積み上げた本の山の中から文庫本を一冊取り出し、七緒に手渡した。
「そうそう、ナナ、これけっこうおもしれがったからコーナー組むよ。あとで追加発注しといで」
「あーっ、これ今日入荷してきたばっかりの新刊じゃんー! おばちゃんやっぱり奥で読んでたんだ! ずるい!」
「なに、店長の特権だあ。ところでそろそろ三時だけども、はっちゃんまだだべか?」
「蜂谷さんち、ここのところ忙しくて大変だって言ってましたよ。訪問販売だって、日課とはいえいつも時間きっかりとはいきませんって」
やがて二人は、おつかいに行けだの行かないだのという攻防戦をくり広げはじめた。聞くと、あの小さなパン屋の店主が、お昼のピークが過ぎたころにいつも商品を売りに来るのだという。口コミで評判が広まり、最近では県内情報誌などにもとりあげられる人気店なのだそうだ。
「はっちゃん、まだ若いのにがんばっててすごいよなー。お客さんに飽きられたらだめだからって、どんどん新しいパンとかお菓子作ってらもん」
「今はまだお母さんに頼ってばかりだから、早く一人でやれるようになって安心させたいって言ってますけどねー。たしかみちるさんと同年代じゃなかったかな?」
このあたりに住んでいて、しかも同年代というなら、知らないほうかおかしいくらいだ。しかし、ハチヤという名字には覚えがない。きっと私のいない間に、別の土地から越してきたのだろう。
ふたたび始まった行け行かないの言い合いを聞きながら、外に目をやった。冬と春のあいだの、うすく灰色がかった景色の中で、店の外壁や看板の色があざやかだ。このせまい一本道は、小学生のころの私が、下校時に必ず通るようにしていた道だ。決められた通学路からは大きくはずれている。一度、親に見つかってこっぴどく叱られた。それにもめげず、この道をかたくなに選んで家に帰っていたのは、この道ぞいに好きな男の子が住んでいたからだ。彼は二歳年上で、みんなにりょうちゃんと呼ばれる明るい人気者だった。私は彼と同じ集団登校のグループで、面倒見のいい彼に声をかけてもらううちに、あわい恋心を抱くようになっていた。彼は学校が終わるといつも走って家に帰ってしまうので、それに追いつけない代わりに、私は彼の家の前を通って家に向かうことにしたのだ。運がよければ、彼が友人と遊んでいるところに出くわして挨拶を交わすくらいだったけれど、内気な私にはそれが精いっぱいだった。やがて彼は中学に入り、学生服姿がとてもおとなに見えて、私はますます彼のことが好きになっていた。けれど彼は、何の前ぶれもなく、とつぜんいなくなってしまったのだ。事情はわからない。けれど引越しの前日、いつもあんなに元気だった彼の顔に、見たこともないような暗い影がさしていたことを覚えている。北海道に行ってしまったと聞いたけれど、今はどうしているのだろう。母なら何か知っているかもしれない。そんなふうに思いをはせていると、
「遅くなってすみません、パンのハチヤですー」
張りのある若い男性の声が店の中にとびこんできた。それとほぼ同時に、汲子が小銭入れをひっつかんで飛び出していく。あれがうわさのはっちゃんか。みちるさんもひとつ食べてみませんか、と七緒に誘われたので、財布をとりだし、汲子のあとに続いて外へ出る。これ何、これは、とはしゃぐ彼女に、ひとつずつ丁寧にパンの種類を説明する彼の顔をたしかめるやいなや、私の心臓は胸の中で大きくはねあがった。
彼の髪型は坊主ではないし、学生服ではなく真っ白なコックコートを着ている。身体の大きさもまったくちがう。けれど、あまりにも覚えがありすぎる。目のかたちや、笑うときの声の感じや、しゃんと伸びた背中に。
「うひゃー、このカツサンド、めっちゃおいしそう!」
「母ちゃん揚げ物苦手なんすけど、どうしても作ってみたくて。無理言って協力してもらったんですよ」
「みちるさんもほらほら、どれにする? 私とちがうの買って半分こするべー」
汲子に腕を引かれ、「はっちゃん」と目が合う。相手によい印象を与えることをよくわかっているんだろうな、という種類の、感じのいい笑顔がそこにあった。
「はじめまして、ハチヤです。よかったら、おひとつどうぞ」
彼が差し出した大きくて平たい箱の中には、さまざまな形のパンや菓子が並んでいる。その中に、かわいらしく包装された小さな焼き菓子を見つけて、思わず手にとった。チョコレート生地の中にナッツが練りこまれた、シンプルなクッキーだ。
「そのクッキー、明日から店に出すなんです。こういう素朴なお菓子もあっていいかなと思って」
「うわ、かわいいー。今年はもう終わっちゃったけど、ホワイトデーのプレゼントなんかにもよさそうだねえ」
「汲子さんはするどいなあ……。これ、昔ぼくがバレンタインのチョコをもらったとき、お返しをするために母と一緒に作ったお菓子なんです」
そのひとことで、古い映画のフィルムをうつしだすように、色あせた記憶がたちあらわれてきた。彼が小学校を卒業する直前のバレンタインデー、私は勇気をふりしぼって、彼に手作りのチョコレートをわたしたのだ。その一ヶ月後のホワイトデーに彼は、わざわざ私の家まで、このクッキーを届けに来てくれた。おそろしく長い時間をかけて、ひとつずつ大切に食べたではないか。どうして、今まで忘れていたのだろう。
ぼんやりしながら代金を払い終えると、彼はまたにっこりと笑って、「じゃあ、またお願いします」と通りの向こうに歩いていく。その背中を見送りながら、クッキーをひとつ口にいれる。くるみの香ばしさが、ふわりとやさしく広がった。
私にもひとつちょうだいよう、と汲子がそばにやってくる。私はクッキーを袋ごと彼女に手渡すと、「すみません、ちょっと行ってきます」と言いのこして、走り出した。
りょうちゃんは、美容室の扉を開けようとしているところだった。「あの!」とつい大きな声で呼びかけると、彼はびくっと肩をゆらして振り向く。丸く見開いた目が、チョコレートをわたしたあの時のそれと重なる。
「あの……亮太さんですよね。昔、りょうちゃんって呼ばれてた」
「そうですけど……」
「私、森末みちるです。覚えていないかもしれませんけど、小学校のとき、同じグループで登校してた、二学年下の」
彼は少し考えこむように目線をおとしたあと、
「ああ、いや、覚えでるよ。みっちゃんだよな、卒業前のバレンタインにチョコくれた。ホワイトデー直接渡せねがったがら、よぐ覚えでる」
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ