わたしの声がきこえる
私の追いかけてきた香りは、小さなパン屋から流れてくるものだった。今日のランチメニューを手描きの小さな立て看板で案内しているのは、向かいの洋食屋だ。美容室は最近できたばかりらしく、チョコレートのような色の壁がつやつやとしている。コーヒーのいい香りが鼻をくすぐるカフェのとなりでは、小さな本屋が戸を開けはなして私を誘っているではないか。コーヒーと本。そんなすばらしい組みあわせが、そういえばこの世界にはあったっけなあと、私はまるで他人事のように思い出す。戸のすぐ横には、「ハルタブックス」と書かれた木の板がさがっている。気づいたときには、私はふらふらと、その戸の中に足を踏みいれていた。
その本屋は、なんと言ったらいいのか、とても個性的に本が並べられている。背表紙を見せて行儀よく並んだ本たちの上のわずかな隙間や、手前の広く空いたスペースなどに、さらに何冊かの本が寝かせて置いてあるのだ。品揃えも、流行のものを扱っているかと思えば、その横にあるのはタイトルも作家の名前も見たことのないものだったりする。店そのものはあまり広くはないけれど、奥のほうには椅子とテーブルが三つほど並べてある。都会の大型書店で最近よく見かける、「椅子にかけてご自由にお読みください」というものらしい。ひとりの若い女性が、そのうちのひとつを陣取って本を読みふけっている。かたわらに何冊もの本を積んでいるのは、マナーが悪い気がするけれど、常連客だろうか。そういえば、さっきから店員らしき人間をひとりも見かけない。
表紙のきれいな文芸書を見つけて、思わず手にとる。この町での生活は退屈だろうから、久しぶりに物語の世界にのめりこむのもいいかもしれない。気になったものをぱらぱらとめくり、三冊ほど手にとってレジカウンターへ向かう。 “御用の方はこちらでお呼びください”と書かれたベルをそっと鳴らしてみると、壁一枚へだてたあたりで「はあい」という元気な声が聞こえてきた。
カウンターの奥の扉がぎしりと開いて、やや小柄な女の子が姿をあらわした。あどけない感じの頬のあたりに、黒い髪の毛がさらりとかかっている。高校生のアルバイトだろうか。
「いらっしゃいませ! お待たせしてしまってすみません」
彼女は目を細めて、にっこりと私に笑いかける。接客業にしては言葉づかいが少しくずれているけれど、それがかえって心地いい。
彼女は私が差し出した本を見て、さらに表情をかがやかせる。
「わっ、ありがとうございます! この花木ゆきえさんって作家さん、ご存知ですか?」
「あ、ううん、今日初めて知ったの。表紙のイラストがすてきだなって思ったんだけど、冒頭を少し読んでみたら私の好きそうな感じがしたから」
「そうなんですか! この作家さん、少し前にデビューされていくつか作品も発表されてるんですけど、まだあまり知られていなくて……。よかったら感想聞かせてくださいね!」
店に入って、そこで働く人とこんなふうに話をするのは初めてのことだった。化粧品をあつかうショップなどで、雑談に見せかけた別の商品の営業トークを聞かされたりすることはあるけれど、彼女にはそういう裏がまったくないように見える。彼女は本を紙袋に入れながら、私の手元に視線を向ける。
「どこかご旅行でも行かれてたんですか?」
不格好にふくらんだキャリーバッグのことを思い出して、とたんに恥ずかしくなる。
「あ、ううん、ちがうの。東京に住んでたんだけど、今日実家に戻ってきたところでね」
そこまで口に出して、しまった、と思った。ただでさえこんな田舎で、誰とでも親しくなれそうな店員の女の子に身の上話をするなんて。中途半端なところで口をつぐんでしまった私を、彼女は戸惑うように見つめたあと、「そうなんですか」とほほえんだ。
この書店員の女の子は、どちらかというと内向的な性格なのだろうけど、彼女と同じ年のころの私のようにいじけた感じはまったくない。生きる力が指先までたっぷりいきわたっていて、ゆらぐことなく、自分の両足でこの場所に立っている。どこにも根をおろすことができず、肉親以外に心を許せる相手もない私とはおおちがいだ。
彼女は、あざやかな緑色の厚手のカーディガンを着ている。その胸元をちらりと見やると、丸く切った厚紙にペンで「七緒」と書いたものをピンでとめている。彼女の名字だろうか、それとも下の名前だろうか。どちらにせよ、私には急ぐような用事もないし、何より、彼女ともっと話をしてみたいと思っている。誰かと顔をつきあわせて、ゆっくり話をしたいなどと思うのは、いつぶりのことかわからないけれど。
「七緒さんは、高校生?」
「はい! 四月に高校二年生になります」
どこの高校かたずねてみると、私の母校の名前を挙げたのでおどろいた。私が通っていた当時は県内でも有数の進学校で、長期の休みともなればおそろしい量の課題が出され、アルバイトは全面的に禁止されていたからだ。でも、私が卒業してからもう何年も経っているし、その間に学校の体制も変わったのかもしれない。彼女だって、何らかの事情があってここで働いているのだろうし。
七緒がカウンターの中から丸椅子を出してくれたので、お言葉に甘えて座らせてもらうことにした。天井近くまでずらずらと並んだ本たちに見下ろされる格好になったせいか、さっきまでよりも埃のにおいを強く感じる。
「七緒さんは、将来の夢とかある?」
「まだあまりよくわからなくて……」
「じゃあ、学校を卒業したら、この町を出たい? それともこのままここで暮らしたい?」
彼女はうーんとうなり、少し目線を落として、カウンターに置いた両手をもぞもぞと動かす。困らせてしまっただろうか。新しい誰かとかかわりを持とうとするとき、いつも私は、その人との距離感をうまくはかることができない。
「前までは、ここにいたいというか、ここにいる以外の道を考えたことがなかったんです。けど、もっといろんな可能性を考えて、自分がいちばんいいと思える選択をしなくちゃいけないって気がついて。それから少し迷うようになって、今はまだ決めてません」
といってもこれ、おばちゃんの受け売りなんですけどね、と彼女はいたずらっぽい顔をする。おばちゃんとは、文字通り七緒の母の妹のことで、この書店の店主なのだという。そうなんだ、と相槌をうちながら、彼女がいやな顔をせずに答えてくれたことに胸をなでおろす。
「あれ、そういえばおばちゃん、何やってんだろ。品出ししてたはずなんですけど……汲子おばちゃーん、店長ー、お客さんですよー」
彼女が大きな声で呼ぶと、それに負けないくらいのボリュームで「おばちゃんって呼ぶなって言ってらべ!」という返事が奥からひびいてきた。長い髪の毛を後ろでぎゅっとまとめ、Tシャツとデニムというラフな格好で、両腕にたくさんの本をかかえてあらわれた女性。それはまぎれもなく、テーブル席でひとり読書にいそしんでいた彼女だった。化粧っけのほとんどない顔で、若い店主は私に笑いかける。
「あーどうもいらっしゃいませ! 店長の春田汲子ですー」
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ