わたしの声がきこえる
念のため、明日の帰りの新幹線に乗るまでの行動をおさらいしてから、いそいでレストランを出てホテルへ向かう。荷物をまとめると、睦子は最寄りの駅へと走っていった。
フロントに宿泊する人数がひとり減ってしまったことを知らせに行くと、それならばツインルームにふたりで宿泊してはどうかと提案された。気を利かせてくれたのだろうけど、七緒はどう思うだろう。意志をたしかめるつもりで彼女を見ると、その態度は意外にもあっさりしたものだった。
「そのほうが費用も浮くし、いいですよね。お願いします」
よくよく考えてみれば、こういう閉じた空間で七緒とふたりきりになるというのは初めてのことだった。なんとなく緊張してしまう。彼女は今、浴室でシャワーをあびている。私はお言葉に甘えて、先に入らせてもらった。
寝る支度を終えたら、することがなくなってしまった。というより、疲れきってしまって、できることが何もない。ベッドに横になり、テレビを見るともなく見る。目を閉じると、あの部屋のことが思い出されてきた。すべてのものが運びだされて、何もかもからっぽになり、今日私のものでなくなった、あの部屋。そこで好きだの嫌いだの、愛してるだの死にたいだのといった感情の嵐がうずまいていたことなど、誰も信じてくれなさそうだと思うほど、すがすがしい様相を呈していた。しかし、はたしてこれでよかったのだろうか。今の私は、過去の私の追いすがる手を無理やりふりほどいて、記憶という檻の中に閉じこめて、すべて終わらせた気になっているだけなのではないだろうか。生きる時間がちがっても、私が私であることに変わりはないというのに。
「みちるさん」
そこで、思考が途切れた。誰かの呼ぶ声がする。目を開けると、部屋は暗く、枕元に七緒が立っていた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「あの、なんだかいやな夢を見てしまって。一緒に寝てもいいですか」
いつもしっかりしている彼女なのに、こんなふうにひとに甘えることもあるのか。いや、もしかしたら、これは夢の世界なのかもしれない。返事をするかわりに、私は自分の体をベッドの右側へ移動させ、空いたほうのかけ布団をめくってやる。七緒はしずかにそこに入ってきて、私にふれるかふれないかくらいの位置に横になった。
「夢の中で、私は中学生でした。将来の夢を発表する授業で、私が発言すると、みんなが野次をとばすんです。お前がなれるわけないって」
中学生のころ、いじめられていたんだもんね。思い出すのもしかたがないよね。そもそも、過去と今をきれいに切りはなそうとすること自体、間違っているんだし。
「そうですよね。そんなことができたら、私が私でなくなっちゃいますもんね。もしかしたら、そういう過去があったからこそ、みちるさんやむっちゃんと出会えたのかもしれないし」
そうだね。私もきっと、東京で花島さんに出会わなかったら、ナナちゃんや睦子ちゃんとも仲良くなることはなかっただろうな。
「みちるさん、私のこと、気にしていたのに放っておいてくれて、否定せずに見守ってくれて、ありがとうございました。今までお礼も言えなくて、ごめんなさい」
ナナちゃんが謝るようなことじゃないよ。それに、私もナナちゃんや睦子ちゃん、汲子さんたちにたくさんのものをもらったから、お礼を言わなくちゃ。
「私、将来はハルタブックスを継ぐのが夢なんです。そのために今、がんばって勉強して大学に行って、そのあとは東京の書店に就職して実力を身につけたいと思ってます。今日たくさんの書店を見てまわって、その気持ちがすごく強くなりました。誘ってくれたむっちゃんと、連れてきてくれたみちるさんのおかげです」
そうか、将来の夢ができたんだね。よかった。ナナちゃんなら、きっとかなえられるよ。
「みちるさんの夢も、教えてください」
そうだね。私の夢はね……。
するどいアラームの音が鳴りひびいて、ぱっと目が覚めた。となりには、誰もいない。顔を洗いに洗面台へ行くと、七緒はすでに着替えて歯をみがいていた。
「あ、みちるさん。おはようございます」
「おはよう。のんびり寝ちゃってごめんね」
彼女はいたって普通の態度だ。やはりあの昨夜の会話は、夢の中のできごとだったのだろうか。すぐにでもたしかめたかったけれど、新幹線の時間まであまり余裕がない。手早く身支度をととのえ、荷物をまとめて部屋を出る。
ホテルを出たところで、七緒が立ち止まった。
「あの、みちるさん」
「ん、どうしたの? 忘れ物?」
「いえ。昨夜のこと、むっちゃんには内緒にしておいてくださいね。なんだか恥ずかしいですし、将来の夢のことも、本当ならむっちゃんに最初に話す約束でしたから」
たぶん私はそのとき、とてもまぬけな顔をしていたと思う。あれは実際に、私と彼女が交わした会話だったのだ。そして、私は七緒にすべて話してしまった。彼女の過去を知っていることも、花島さんのことも、将来の夢のことも。
大きな声で笑ってしまいたい気持ちをこらえながら、私は、
「わかった。そのかわり、私のこともここだけの話にしておいてね」
そう言って、右手の小指をさしだした。七緒も同じように小指をさしだすと、私のそれに軽くからめ、いたずらっぽく笑った。
東京駅の改札前で睦子と落ちあい、新幹線に乗りこむ。睦子は兄と一晩中語りあかして、もしもこの先両親と進路のことでもめることがあったら、そのときは味方についてやると言ってもらえたそうだ。帰り道ではさすがに遊ぶ元気もなかったのか、七緒も睦子も、席についてしばらくするともう眠ってしまっていた。
新幹線が発車し、窓の外の景色がゆるやかに流れはじめた。ショルダーバッグをひざの上に乗せ、ジッパーを開ける。新聞紙で巻かれた小さなかたまりがそこにあることを確認すると、安堵のため息が出た。花島さんに買い与えられたものの中でたったひとつ、自分で選んだあの陶器の猫を、私は捨てずに持ち出してきたのだ。ふたりには、言えなかった。あの部屋にあったものすべてをためらいなく捨てたり売ったりしたはずなのに、これだけを持ち帰るというのは、東京での生活に未練があるからではないかと思われそうだったからだ。私にあるのは、そんな消極的な気持ちとはまるっきり正反対のものだ。
昨夜七緒に、過去と今をきれいに切りはなすことはできないと話したけれど、あれは私自身に言い聞かせるための言葉でもあった。彼女が中学時代を忘れられないように、私も東京での生活や、花島さんのことをさっぱり忘れてしまうことはできない。忘れてはいけない、とも思う。それがきっと、過去の自分に敬意を表する唯一の方法だから。新聞紙を少しめくり、顔の部分をむきだしにする。猫は、あの日雑貨屋の棚にいたときと変わらず、ちょっと困ったようにひとみをうるませていた。
ドアが開くと、東京のそれとはまったくちがう、湿気と熱をともなった風が私たちを迎えた。
「うわあ、暑い! 東京も暑かったけどここも暑い!」
睦子が、もううんざりという調子で声をあげる。七緒もさすがに不快そうな顔だ。
「東京のほうがもうちょっとこう、空気がからっとしてましたよね……」
「結局、種類がちがうだけなのよね。夏は暑いし、冬は寒いし」
作品名:わたしの声がきこえる 作家名:アサヒチカコ