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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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わたしの声がきこえる

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 角をまがり、ゆるい坂をのぼっていく。ぼやけたクリーム色のアパートは、怖いくらいに何も変わっていなかった。ふたりが後ろで何か感想めいたものを言っている気がするけれど、うまく聞こえない。階段をのぼり、いちばん奥の扉の鍵穴に鍵をさしこむ。まわらなければいいのに。しかし、かちりという音をたてて、鍵は開いてしまった。汗ばむ手で、ドアノブを引く。以前はこれを毎日のように繰り返していたのだということがまるで信じられないくらいに、ひどく重たいものに感じる。玄関に足を踏みいれる。遮光カーテンを閉めきっているので、部屋の中はよく見えない。けれどひとつだけ、はっきりわかることがある。においだ。床にどんよりと積もっているような、台所や浴槽のすみにじっとりとひそんでいるような、生ぐさい、鬱屈とした、におい。
「わ、空気こもってる! みちるさーん、窓開けちゃっていいですか」
 とつぜんひびいた大きな声に、我にかえった。いつの間にか睦子が部屋にあがって、カーテンをつかんでいる。うなずくと、すべてはあっという間に正体をあらわした。テーブルの上には、一年以上も前の求人情報誌が何冊も広げられている。それは私の胸をぎゅっとしめつけたけれど、傷をつけてしまえるほどの力はもう残ってはいないようだった。空気がすっかり入れ替わってしまったあと、窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。睦子に浴室とトイレ、七緒に台所をまかせて、私はテーブルとベッドまわりの片づけにとりかかる。いたずらに物を買わないように気をつけていたので、作業そのものは、三人でやればそれほど時間はかからないはずだ。
 しかし、むだなものがないということは、言いかえれば、必要なものや大切にしていたものばかりがここにはあるということだ。本棚の上にかざってある陶器の猫は、花島さんとはじめてデートをした日に買ってもらったものだ。そのとなりの小さな箱の中には、彼が私の誕生日に選んでくれた指輪が入っている。そして、彼と何度も時間をともにしたベッドに、私は今ひとりで腰かけている。きっと睦子は、浴室に男性ものの剃刀があることに言葉をうしない、七緒は台所で、同じ食器が二組ずつあることに疑問をいだいているにちがいない。
 この部屋で暮らしていたころの私は、花島さんに生かされていた。会社に通っていたころも、会社を辞めたあとも、良くも悪くも、花島さんが生活の中心になってしまっていたのだ。思い出でふくらんだこの部屋を出るという決断がひとりではできなかったのも、花島さんという軸を取りはらってしまったら、もう生きてはいけないのではないかと思いこんでいたせいだ。しかし、実際はちがっていた。彼の気配をかけらも感じることのない、この部屋の外の世界に飛びだした私は、おぼつかないながらも今きちんと生きている。そして、他人から与えられるのでない、自分の足で追い求めるべき幸せを、自分自身の中に見つけようとしているのだ。
 作業の手をとめ、あらためて耳をすませてみる。水の流れる音、ブラシでこする音、新聞紙のかさかさという音、食器のぶつかりあう音にまじって、ふたりの女の子がおしゃべりをしている。何を話しているのかはわからない。しかしそれが、数か月前の私には想像もつかなかった種類の、おだやかで、幸福な背景音楽であることは、否定のしようがなかった。何かこみあげてくるものを感じながら、私は作業を再開する。本棚がからっぽになったので、アクセサリーボックスを開けてみると、花島さんにもらったネックレスやピアスがいくつも出てきた。付き合いそのものは短かったのに、外で会うたびに何かしら身につけるものを買い与えたがるひとだった。それらすべてをテーブルの上にならべたあと、今度はクローゼットの中の洋服を床の上に広げはじめた。一度この部屋を出たときに、ふだん着るものはすべて家に持ち帰っていたので、今ここに入っているのは、ほとんど着なかったものだけだ。花島さんに買ってもらったものや、彼の好みにあわせて自分で買ったもの。花島さんはなぜかブランドというものをとても信頼していて、有名どころの名前のついたものしか買わない主義だったし、私にもそうすることを求めた。ほんとうにつまらなくて、ばかみたいなひとだった。
 それぞれの仕事を終えた睦子と七緒は、部屋じゅうにまきちらかされた洋服に歓声をあげる。そして、誰からともなくファッションショーがはじまった。仕立てのよいトレンチコート、ブランドロゴのあしらわれたハンドバッグ、ミニのワンピース。けれど、私たちに似合うものは、何ひとつなかった。絶え間なく笑い声をあげながら、私は、過去の恋との決別を楽しんでいた。

 夕方、業者に家具や家電を引き取ってもらったあと、私たちは両手に大きな紙袋をさげて、ブランド品の買い取りをしている店に立ち寄った。あの洋服やアクセサリーのかわりにお金が手渡されたとき、体がぐんと軽くなったような気がした。ひとりでは絶対にできなかったことだ。あれだけのものを持っていたことに対して、睦子と七緒が何も言わなかったことにも感謝しなくてはいけない。ふたりは遠慮していたけれど、その日の夜は焼肉屋に連れていった。ホテルに戻るころには、みんな体力も尽きてくたくただった。ツインルームにふたりがきちんと入るのを見とどけたあと、私は自分の部屋に入るなり、ばったりとベッドに突っ伏して、そのまま朝まで眠ってしまったのだった。

 翌日、いそいで支度をすませて、ふたたびアパートに向かった。不動産屋との最後の手続きを終え、三人でお昼ごはんを食べながら、本来の目的を達成したことをお祝いする。そしてついに、ふたりの念願の書店ツアーがはじまった。
 ビルがまるごと使われている大型の書店、気をつけていなければ通りすぎてしまいそうなところにある小さな書店。特定のジャンルをあつかう専門書の店。いっしょに雑貨を買えたり、お茶を飲むスペースが用意されている書店。スケジュールの都合で、ひとつひとつに時間をかけることはできなかったけれど、睦子と七緒の目は終始きらきらとして、そこにうつるものすべてを記憶にきざみこもうとしているかのようだった。特に七緒は、手帳にびっしりとメモを書きつけていた。高校生のアルバイトとはいえ、すでに現場で働いている書店員として、思うところはたくさんあるのだろう。来れてよかったね。思わずそう声をかけると、彼女は頬を赤らめて、小さくうなずいた。

 夕方、ホテルのそばのファミレスで食事をしていると、睦子のスマートフォンが鳴った。
「あ、電話だ。ちょっとすみません」
 彼女はいったん店の外に出ると、すぐに戻ってきた。
「みちるさん、今の電話、兄からで」
 そういえば、睦子の兄は東京の大学に通っていると言っていた。
「お兄さん、どうかしたの?」
 聞くと、東京に行くということは以前からメールで伝えてあったのだが、今日になって、せっかくだから一晩アパートに泊まりに来ないかという話だったのだそうだ。
「ついでなので、進路のことも相談したいなあと思って。行ってきてもいいですか」
「もちろんいいよ。明日の朝、ひとりで東京駅まで来れる?」