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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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わたしの声がきこえる

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「みちるは、アルバイトのほうはどうなんだ」
「あ、うん、だいぶ慣れてきたと思うよ。店長もいい人だし」
 父はゆっくりとうなずいて、
「お前はまだ若いんだがら、バイトでもなんでも、いいど思うなら続けでみればいい。引ぎこもってるわげでもねえし、生活のこどはあまり心配するな」
 どうやら、私が両親の老後を気にしているのだと勘違いしたらしい。母もそれ以上同じ話題を続けようとはしなかったので、結果的には父に助けられる形になってしまった。
「うん。ありがとう」
 食事を終えて、キッチンで食器を洗っていると、横に立った母が「そういえば」と話しかけてきた。
「みちるはその感じだと、今の仕事を長ぐ続けるつもりなんでしょう。だったら、そのままにしてきた東京の部屋、片付けできたらいいんでないの。何日か休みもらって」
 思わず、茶碗をとり落としそうになった。すっかり忘れていた、といえば、それは嘘になる。ことあるごとに思い出し、いつかは行かなくてはいけないとわかっていながらも、なかなか決心できずにいたのだ。どん底の生活をしていたあの部屋に入ってしまったら、私自身もあのころに戻ってしまうのではないかという恐れをかかえていたからだ。けれど、あの部屋を引き払ってしまうことができれば、多かれ少なかれ、この先の人生を考える気持ちの余裕も生まれるのかもしれない。
「そうだね。店長に相談してみるよ」
 私は自分をはげますように、お腹にぐっと力をこめて返事をした。

「みちるさん、東京に行くってほんとですか? まさか向こうに戻っちゃうんですか?」
 ハルタにやってくるなり、睦子が立読みをしていた私につめよってきた。あわてて「ちがうちがう」となだめる。
「解約してないアパートの部屋を片付けに行くだけ。すぐに帰ってくるよ」
 睦子を追ってきたのか、つづいて七緒が店内にとびこんでくる。
「むっちゃん、だからちゃんとそう説明したじゃない! どうしていつも私のこと疑ってかかるの」
「だってナナ、『みちるさんが決めたことなら仕方ないですね』とか言って、引き止めたりしなさそうなんだもん」
「まあ、それは言えでるな」
 いつのまにかレジカウンターの奥の扉がひらいて、汲子が顔を出していた。相変わらず、たくさんの本を両腕にかかえている。
「で、お休みはもらえそうなの?」
「あ、はい。来月のはじめに都合つけてもらえたので」
 真夏の東京があ、がんばってな。汲子はそう言ってにかっと笑うと、店の奥へと入っていった。
「みちるさん、八月に東京行くんですか?」
 そうたずねる七緒に、新幹線の往復きっぷを見せる。千恵とシフトの調整をしたあと、帰りに駅に立ち寄って買ってきたのだ。
「学生さんの夏休み期間だからね、席が埋まっちゃうと困るからとってきたの」
 すると睦子がとつぜん、手をぱちんと叩いてさけんだ。
「そっか、そうだよ夏休みだよナナ!」
 七緒は、それがどうかしたのかという様子で首をかしげている。睦子は私のほうに向きなおると、新しい遊びを思いついた子犬のようにきらきらした目をして、こう言った。
「みちるさん、お部屋の片づけ、ひとりじゃ大変でしょう。私たちに手伝わせてください」


* * *


 人手がほしいのは事実だったけれど、睦子と七緒を連れていくなんて、思いつきもしなかった。あのとき私は、とつぜんの提案に動揺して、つい「保護者の許可がないならダメ」などと答えてしまった。そういう問題ではないのに、それではまるで、保護者の許可さえおりれば連れていってやると言っているようなものではないか。予想どおり、その翌週には、ふたりとも「両親に許しをもらった」といって旅費をそろえてきたのだった。
 そして、ついに当日の朝がやってきた。到着までの四時間、本でも読みながらすごそうと思っていると、ならんで前の席にすわった睦子と七緒が席を回転させ、トランプをしようと誘ってきた。ふたりとも、早起きして始発の新幹線に乗ったとは思えないほど元気だ。そのリュックサックからは、遠足かと思うほど次々とお菓子が出てくるので、車内販売ではペットボトルの飲み物を買えばそれでじゅうぶんだった。
 そういえば、この子たちはなぜ、私の東京行きについていくなどと言い出したのだろうか。部屋を引き払うのを手伝ってもらえるのはありがたいけれど、まさかそれだけが目的ではないだろう。ふたりはお菓子をほおばるのをやめ、顔を見あわせると、
「私たち、東京にあるいろんな書店を見てみたいんです。ハルタにも活用できるものが何かあるかもしれないし、もし私が本当に出版社に就職できたら、書店は大切な取引先になりますから」
 睦子がもじもじと答える。理想の職業についたその先を考えるなんて、時期尚早すぎると笑われるとでも思っているのだろうか。私はこのふたりを見ていて、何事も遅すぎることはないとよく言うけれど、早すぎるということも、実はそれほどないのではないかと思うようになっていた。もちろん未成年であるし、何でもというわけにはいかないけれど、その身をもってして経験するまでわからないことというのは、たくさんある。それならば、可能なかぎり、そういうものに触れてほしい。おとなたちが守ってくれるその間に、いろいろなものを見て、感じてほしい。そしてできるならば、そうして成長していく過程をそばで見守らせてほしい、と。
「わかった。それじゃあ今日は片づけをがんばって、予定どおり明日の午前中には手続きを終わらせよう。そうすれば、明後日の朝帰るまでの時間は自由に使えるからね」
手をとって喜びあうふたりと、睦子のスマートフォンで立ち寄れそうな書店をリストアップしていると、いつのまにか到着時間がせまっていた。いそいで広げた荷物をまとめ、席をもとに戻す。あのとき、寝床を追われた野良猫のように逃げ出した町が、夏の太陽に照らされながら近づいている。

 予約をいれていたビジネスホテルに大きな荷物をあずけ、数か月前まで暮らしていた町へと向かう。新幹線ではしゃぎすぎたせいか、ふたりは電車の中でうとうとしている。着いたよと声をかけ、ホームに降り立つと、七緒が目をぱちぱちさせながら言った。
「ここ、知ってます。いつも『住みたい街ランキング』の上位に入ってますよね」
 そう、ここは若者のあこがれの町だ。カフェやギャラリー、ライブハウスなどが充実していて、駅のすぐそばには小さな劇場もある。高校生の私は、東京に出ようと決めたとき、住む町のこともすでに考えはじめていた。この町は、そうして挙げていった候補のうちのひとつだったのだ。
 しばらく歩いていくと、商店街がとぎれ、住宅街の入り口が見えてくる。にぎやかな雰囲気は少しずつ遠ざかり、しずかでおだやかなそれに体が包みこまれていく。
「なんだか不思議ですね。同じ町なのに、これだけ空気がちがうっていうのも」
 睦子がつぶやくように言う。彼女は何度か東京へ観光に来たことがあるようだけれど、そこで暮らしている人間だけが入っていくような空間を体験するのは初めてなのだろう。