置いてけぼりの夏
「ひさしぶり」
一度も聞いたことのない、低い声だった。中学のころ、尋人はまだ変声期をむかえていなくて、よくそれをからかって怒らせたりしたっけ。わたしは黙ってうなずく。息苦しい数秒間の沈黙は、何分にも、何時間にも感じられる。何を話したらいいのかわからないのは、お互いさまらしい。
「週末、花火大会だな」
その単語に、缶をにぎった手に力がはいる。年に一度、この町では大規模な花火大会がおこなわれる。全国的にも名が知れているので、この日だけは小さな町が観光客でごったがえす。けれど、それがいったいなんだというのだろう。
「実はさ、今年会場の席がとれたんだ。でもそれ、ひとりぶん余ってて」
「行かないよ」
自意識過剰だといわれるかもしれない。けれどわたしには、尋人が次に何を言おうとしているかわかってしまった。言葉をさえぎられたあいつは、おどろくでもなく、「だよね」と少し笑った。ふたをして胸の奥にしまっておいたものが漏れ出して、のどを通ってせり上がってくる。足の裏をひきはがすように乱暴に持ち上げて、わたしは走り出した。なんて残酷なのだろう。どうして、ほうっておいてくれないのだろう。あいつも、あの日の記憶も、ぜんぶ。
中学三年の夏休み、この町の商工会議所にコネがあるという親戚が、花火大会の会場の桟敷席のチケットを送ってきてくれた。毎年争奪戦なので今まで一度も座ったことがなかったのだけれど、たまたまキャンセルが出たからということだった。家族で行こうと決めて楽しみにしていたのに、父は仕事が入り、妹がひどい風邪をひいて寝込んだので母がそれに付き添っていなければならなくなった。ひとりで行くのもな、と迷っていたところに、あいつが「一緒に行ってやる」といったのだ。間近で見る打ち上げ花火は、想像を超えた美しさだった。屋台で焼きそばやチョコバナナを買いこみ、ほおばりながら夢中で空を見上げた。あの日がそれで終わってくれれば、きっとただのいい思い出になったはずなのだ。問題は帰り道だった。すべてのプログラムが終わると数十万人の観光客が一気に動き出して、十五歳のわりに小柄だったわたしたちは波にのまれないように必死だった。はぐれてしまったらどうしようと半泣きになっていたところで、あいつが仕方ないというような顔をして、わたしの片手を強くにぎったのだ。手をつなぐなんて小学校低学年のとき以来だったので、わたしはひどくおどろいた。なぜだか顔があつくなってきて、にぎられている手が汗ばんできたことには、ますますおどろいた。「大丈夫だから」といっても、あいつは手をはなしてくれなかった。大きな通りに出て人ごみから解放され、住宅地に入り、わたしの家の門の前に着くまで、わたしたちはずっと手をつないで歩いていたのだ。
そして翌週、二学期がはじまって学校へ行くと、とつぜん複数人の女の子たちにとりかこまれた。彼女たちはみんな同級生だったけれど、クラスの中でいちばん目立つ派手なグループの子たちで、個人的に会話をしたことは一度もなかった。リーダー格の子に「あんた、不二井尋人とつきあってんの」とたずねられて、頭の中が真っ白になった。わたしと尋人が幼なじみだということはみんなが知っているはずだし、いまさらそんなことを疑われるいわれはどこにもない。また別の子が、「じゃあなんで花火の日、手ーつないで歩いてたんだよっ」と語気を荒げる。見られていたのだ。聞くと、グループの中のひとりの子がずっと尋人に片想いをしているのだけれど、花火の日にわたしとあいつが一緒にいるところを見てしまった。ショックが大きくて、もう学校に行きたくないと泣いているのだという。誤解だと何度説明しても、彼女たちはわかってくれなかった。そしてその日から、わたしが尋人と話したりするたびに嫌がらせをするようになったのだ。こそこそ悪口を言ってはこちらを見て笑う程度だったそれは、だんだんエスカレートし、他クラスに根も葉もないうわさを流すようにまでなった。男にはすぐ股を開くとか、援助交際しているとか、そういう内容だったと思う。はじめのうちは耐えてやろうと意気込んでさえいたのに、限界は案外すぐにやってきてしまった。わたしは尋人に、迷惑だからもう自分とかかわらないでほしいと伝え、それっきり目をあわせることもしなくなった。ずっと続いていくのだろうと思っていた関係を断ち切るというのは、悲しいほどかんたんなことなのだということを、わたしはそのときはじめて知った。尋人を好きだと言っていた子は普通に学校に来ていて、卒業するころに告白したとうわさで聞いたが、どうなったかは知らない。
家に戻ってすぐベッドに入ったのになかなか寝つけず、明け方ごろにようやくうつらうつらして、目が覚めたら昼を過ぎていた。重い体をなんとか持ち上げると、ドアをノックする音がして、芽衣が部屋へ入ってきた。
「お姉ちゃん、起きてる?」
「んー、今起きた。なんか朝まで眠れなくてさ」
妹は、そっか、とうなずいて、話したいことがあるのだけどいいかな、とたずねる。悩みごとか何かだろうか。
「このさいだからはっきり聞くね。ゆうべ、ひろ兄ちゃんに会ったでしょ」
顔の筋肉がこおりつくのがわかる。どうして知っているのだろう。はじめて見る妹の顔に、ごまかし笑いなどできなかった。
「会ったよ。それがなに?」
「なにじゃないでしょ。週末の花火大会、誘われたんじゃないの?」
「誘われてないよ」
「嘘つかないで。わたし、ひろ兄ちゃんから聞いて、ぜんぶ知ってるんだから」
そうして妹は、あの日のことを語りはじめた。時折、だよね? とわたしに事実であることをたしかめながら。わたしはあの日のことを、誰にも話していない。尋人と手をつないだことも、同級生の女の子たちにいじめられていたことも。それをどうして彼女が知っているのだろう。尋人に聞いた、と言ったか。あいつはもしかして、ぜんぶ知っていたのだろうか。知っていて、わたしの言うとおりにしたのだろうか。
「なんであいつが、芽衣にそんな話するの」
それは、と妹が言いよどんでうつむく。言えないようなことなのか。だんだん頭に血がのぼってきて、声が大きくなっていくのが自分でもわかる。
「だっておかしいじゃん。わたしとあいつの問題なのに、なんであんたが入ってくるの。部外者じゃん。ほっといてよ」
「部外者なんかじゃないっ」
妹はいきなり声をはりあげた。芽衣でもこんな怒鳴り声が出せたのかと、おかしなところで感心している自分がいる。
「お姉ちゃんは知らないだろうけど、わたしずっとひろ兄ちゃんのことが好きだったんだよ! 近くの公立大受けようって決めたのも、ひろ兄ちゃんが家に帰ってくるときには絶対に会えるってわかってたから!」
声も出なかった。そんなこと、まったく気づきもしなかった。ひろ兄ちゃんひろ兄ちゃんと言っていたのは、本当に兄として好いているだけだと思っていたのだ。
「昨日の昼間、駅前でひろ兄ちゃんに会ったんだ。久しぶりだしお茶でもしようって言われて、すごくうれしかった。でもね、ひろ兄ちゃん、お姉ちゃんの話ばっかりするんだよ。そのいきおいで告白しちゃったんだ、わたし。お姉ちゃんじゃなくわたしのことも見てよ、って。でも、ふられちゃった」