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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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置いてけぼりの夏

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 目をさますと自分の部屋のベッドの上だったので、わたしはそれが夢なのか現実なのかとっさに判断することができない。ひたいが汗でぬれているのは、夕方になっても強く照りつける日差しのせいだけではないだろう。ひどくいやな夢だった。私は高校生で、あいつが目の前に立っていた。こうしてしっかりと目がさえても、その顔がどんなふうだったか、はっきりと思い出すことはできない。いや、思い出したくなどないので、それでいいのだけれど。
 一階におりていき、洗面所で顔を洗う。小さな家の中は物音ひとつしない。父も母も仕事に出かけていて、まだしばらくは帰ってこない。こんなふうに実家で過ごすのは、およそ二年半ぶりのことだ。昨年の春から大学に通うために東京で一人暮らしをはじめて以来、ことあるごとに「たまには帰ってきなさい」と言われていたが、わたしは何かと理由をつけてそれをかわしつづけていた。学校の課題がたてこんでいるとか、アルバイト先が繁忙期で休めないとか。それらはけして嘘ではなかったが、年に数回実家にも帰れないほどかとたずねられれば、そうではなかった。ではなぜ、この夏は帰省することを決めたのか。それは、電話をかけてきたのが口うるさい母ではなく、いつもひかえめで無口な父だったからだ。しかも、帰るために必要な交通費をもう口座に振り込んであるから、というのだ。そこまでしてもらって、忙しいから帰れませんとはとても言えなかった。そもそも、実家が嫌いで帰省を拒んでいたわけではないのだ。東京にいれば、あいつと出くわす可能性はゼロにひとしいが、帰ってくればその確率は九十パーセント以上にはねあがる。だからこそ、さっきのような夢を見たりしてしまうのだ。記憶をはらいおとすように頭をぶんぶんと振っていると、とつぜん玄関の戸を開ける音が聞こえて、わたしの背中はびくりとふるえる。
 おそるおそる顔をのぞかせると、黒くつやのあるポニーテールと、チェック柄のスカートがゆれるのが見えた。思わず少し大きな声で「芽衣っ」と呼びかけると、彼女は小さく声をあげてこちらを振り向く。
「やだ、びっくりしたー。お姉ちゃん帰ってきてたんだー」
「んー。夏期講習おつかれ」
 妹はわたしの二歳年下で、今年高校三年生になった。この家から歩いて通える公立大を目指して、勉学にはげんでいるらしい。身内がいうのもなんだけれど、彼女はとてもかわいい。わたしは奥二重の父に似てどこかぼんやりした顔つきだけれど、妹は目鼻立ちのはっきりした母の顔にそっくりだ。いつだったか、彼氏はいないのかとふざけながらたずねたら、そんなのいるわけないでしょっと怒られてしまった。真面目なのか恥ずかしがり屋なのかわからないけれど、どちらにせよ、神様に二物も三物も与えられた女の子だなあとわたしはつくづく思う。外見がかわいらしいわけでもなく、ただただがさつなばかりの姉とは大ちがいだ。周りに言われるまでもなく、本当に血がつながった姉妹なのかうたがわしい。
 芽衣と会うのもずいぶん久しぶりだが、電話やメールでちょこちょこ連絡をとりあっていたので、顔を見たからといって改まって話すようなことは特にない。コップに麦茶と氷を入れて手渡すと、妹はそれを受け取りながら「そういえば」という。
「ひろ兄ちゃんから今朝メール来てさ。明日帰ってくるみたいよ」
 ある程度覚悟はしていたつもりだった。けれど、帰ってきて数時間しか経っていないというのに、さっそく妹の口からその名前が出たことにわたしは動揺してしまった。彼女のまっすぐな視線から思わず目をそらし、自分のコップに音をたてて氷を入れながら「へーそうなんだ」などと言ってみる。ばればれの演技だ。妹はやさしいから、それをわかっていても問いつめるようなことはしない。ずっと昔から、そういう子なのだ。
 この桜庭家の子どもは、わたしと芽衣のふたりだけだ。おとなりの不二井家のひとり息子の尋人を、彼女はずっと兄と呼んで慕っている。尋人はわたしと同い年で、いわゆる幼なじみというやつだ。母によれば、生まれた病院も同じで、ベッドもとなり同士だったらしい。幼いころから何をするのも一緒だった。けれど、それは途切れた。わたしから途切れさせたのだ。中学三年の夏休みの、あの明るい夜に。

 芽衣が学校の教科書を開く横でぼんやり携帯電話などをいじっているうちに、母が帰り、父が帰ってきた。夕食になるとテーブルにはわたしの好物ばかりがならび、父はめずらしく日本酒など飲んで、首まで真っ赤になりながら機嫌よさそうにほほえんでいた。わたしも少しだけそれにつきあいながら、母と妹とばかみたいな話をして大声で笑った。お風呂からあがると、居間のソファで二時間ほどうとうとしてしまった。時計は真夜中をすぎ、家族はみんな眠ってしまっている。のどがひどく渇いていた。きんきんに冷えた炭酸ジュースが飲みたいけれど、うちの冷蔵庫にそんなものは常備されていない。少し迷って、小銭と携帯電話だけをジャージのポケットにつっこみ、サンダルをつっかけて外に出る。
 昼間の湯気の中のような空気をほんの少し残して、世界は紺色に沈んでいた。今夜は月と星がきれいに出ているので、街灯は少なくても、すべてのものの輪郭がはっきりと浮かび上がっている。河川敷のある方向からはたくさんの蛙が鳴く声が押し寄せてきて、ほてった体に風が吹き抜けていくようだった。三分ほど歩き、屋根つきのバス停にたどり着く。高校生のころ、学校に通うために毎日使った場所だ。ぽつんと一台置かれた自動販売機は、なにかの目印のようにこうこうと明るい光をはなっている。小銭をいれ、うさんくさいパッケージの果汁入り炭酸ジュースをえらんで買う。たいしておいしいとも思わないのだけれど、わたしは昔からこの自販機の前に来ると、必ずといっていいほどこのジュースをえらんでしまう。タブをあけて飲みはじめたとたん、やっぱり他のものにすればよかったと後悔するのに、飲みおえて家に帰るころには、また無性にそれを飲みたくなっているのだ。
 最後にこれを飲んだのはいつだっただろう。それが思い出せなくなった今でも、その味が昔と変わっていないことだけはわかった。ただただ甘くて、口の中にべったりと残る感じ。オレンジ果汁入りなどとうたってはいるけれど、これをオレンジソーダだなどと思いながら飲んだことは一度もない。三十円高くても、やっぱりとなりのペットボトルの三ツ矢サイダーにするべきだった。半分ほど飲んでやめ、残りは家で捨ててしまおうと思いながら振り返ったところに、あいつが立っていた。
 帰ってくるのは明日だと、妹は言っていなかっただろうか。尋人は背の高さも肩幅の広さも、最後に会ったときとは見ちがえるほどだった。それなのに、ほんの一秒目が合っただけであいつだとわかってしまうわたしは、いったいどうなっているのだろう。あれだけ顔をあわせないようにして、忘れるための努力を重ねてきたというのに、それはなんの意味もなかったということだろうか。
 走り去ってしまえばよかったのに、わたしの足は地面につきささってでもいるかのように動かなかった。尋人は少し困ったような笑みをうかべながら、こちらに近づいてくる。そうして、あっという間にわたしの目の前までやってきた。
作品名:置いてけぼりの夏 作家名:アサヒチカコ