愛を抱いて 23
柳沢の顔からは、まだ蒼味が抜けてなかった。
「駄目だなぁ…。
お前と一緒の事をやってて、いつも俺の方が先に息切れしちまう…。」
柳沢は両手をベンチの上に突きながら、云った。
「それは、お前が健康な証拠さ。」
私はベンチの背もたれに両腕を掛けた。
「これ以上続けたら壊れてしまうって事を、身体がちゃんと教えてくれてるのさ。
俺の場合、もう見放されてるんだ…。」
世樹子とノブが上空の飛行船の上から、笑って手を振っていた。
「お前と俺の違いを、世樹子に指摘されたよ…。」
柳沢は背を前へ傾け、膝の上に肘を突いて云った。
── 私とノブが行ってしまった後、柳沢は膝を立てて上体を少しずらし、世樹子にベンチに座る様云った。
「あ、私はいいのよ。
どうぞ、脚を伸ばして頂戴。」
「いや、もう伸ばしてるのに疲れて、立てていたいんだ。」
「ありがとう…。
じゃあ、座らせてもらうわね。」
世樹子は柳沢の頭の横に腰掛けた。
そして柳沢は胸焼けに耐えながら、遊園地の騒音を遠くで聴いている内に眠りに就いた。
眼を覚ました時、彼は色々な音楽や機械の音が随分近くでしている事を、少し不思議に感じた。
激しいむかつきは、どうやら消えていた。
背中が酷く痛いのに気づいて、彼は起き上がった。
「気分は、どう…?」
世樹子はまだベンチの端に座っていた。
「平気みたいだ…。
君はずっとそこに居たの?」
「ええ…。」
「退屈したろ。
鉄兵達は…?」
「2人で楽しんでるんじゃない?」
「1度も戻って来ないのか。
君も一緒に…。」
「遊園地って飽きない処ね。
ここから、乗り物に乗ってる人や歩いてる人や、立ち止まってる人や色んな人を視てると、とっても面白かったわ。
本当よ。
次から次へ、新しい人達がやって来ては、立ち去って行くの…。
若いカップルに一番興味を惹かれたわ。
街で見かけてる時は、そんな事全然ないのに、ここだとなぜかその二人の過去や未来の物語が解るの…。」
「よっぽど、暇だったんだな…。」
「柳沢君の寝顔も、楽しませてもらったわよ。
でも、鉄兵君たら、少し冷た過ぎるわよねぇ?
病人を放っておいて、自分だけ乗りに行っちゃうなんて…。」
「ノブちゃんだって、行っちまったぜ。」
「鉄兵君が強引に行こうって云って、ノブちゃんは気にしながら仕方なくって感じだったじゃない。」
「あいつはあれで俺に気を使って、乗りに行こうって云ったんだよ…。
でも、君が人の悪口を云うなんて、初めてだな。」
「あら、そんな事ないでしょ…。
私だって…。
柳沢君って、純粋に優しいのね。」
「純粋ってのは、何だい?」
「柳沢君と鉄兵君が少し違う処よ。」
「どんな処が違う?」
「ベンチに座れって云ってくれたでしょ。
あんな時、鉄兵君だったら、どんなに気分が悪くても、膝枕を要求する事を忘れないわ…。」 ──
「何だ、皮肉を云っとるだけじゃないか。」
私は云った。
「いや、そうじゃない。
世樹子は…。」
「私が、どうしたですって…?」
世樹子とノブは、こちらへ歩いて来る処だった。
「君は病人のそばにずっと付いていてやれる、優しい女だって事さ。」
私は云った。
「どうせ、悪口云ってたんでしょ。
いいですよだ…。」
世樹子は笑顔のまま、口を尖らせた。
朝からずっと雲に遮られる事のなかった日差しも、いつの間にか大きく傾き、我々の影を長くしていた。
どうしても、もう一度「スカイ・ダイバー」に乗りたいと云う事になり、入退園口の方へ歩いた。
柳沢はやはり再発が怖いので、乗らずに下で待っていると云った。
私はノブと乗った後、世樹子と一緒にホームへ入った。
「今日は実に有意義な日だったな…。
何より大きな収穫が1つあった。」
私は世樹子に云った。
「そうでしょうね…。」
「その収穫は何か、訊かないの?」
「訊かなくても、解ってるわ。
でも、まあ一応、訊いたげましょうか…。
何…?」
「はい、どうぞ。」と係員が云い、二人はゴンドラに乗り込んだ。
「君が遊園地を本当に好きだって、解った事さ。
朝、云った様に、もっと早く教えてくれれば良かったんだ。
当然、近い内にもう1度行くだろう?
遊園地へ…、今度は2人きりで…。」
「誰と…?」
世樹子は、1度造りかけた微笑みを抑えて云った。
「訊かなくても、解ってるんだろ?」
「解らないわ…。」
「君と俺の2人きりでさ…。」
「鉄兵君、期待してるわよ。
絶妙のテクニックを見せてね。」
「ああ、これで3度目だから、もうプロだぜ。
手加減しないけど、いいかい?」
彼女は懐かしい笑顔を見せた。
「もちよ…。」
突然、私はゴンドラを回転させた。
彼女は短い悲鳴を上げた。
「この程度でそれじゃあ、心配だなぁ。」
回転を停めながら、私は云った。
「そう…、良かった。
今のは、鉄兵君に気を使ったのよ。」
「ほぉ…、わざと怖がってくれたわけか…。」
「決まってるでしょ…。」
ベルが鳴った。
彼女は握り棒を、両手でしっかり握り締めた。
「よぉし、それじゃあ、ぶっ壊すつもりで思いっ切り行くぜ。」
彼女は全身に力を込めた。
ゴンドラはゆっくりと動き始めた。
〈四六、豊島園遊園地[中編]〉
47. 豊島園遊園地〔後編〕 ~メリーゴーランド~
空と地上が、入り乱れて廻っていた。
世樹子は眼を閉じた。
「眼をつむっちゃ、駄目だぜ。」
私は二人がゆっくり動き始めた時、そう云った。
彼女はずっと瞳を開けたまま、次から次へと目紛しく変わって行く景色を見つめていた。
そして、やがて疲れた様に、まるで、もう想い出にしてしまいたいかの様に、彼女は静かに眼を閉じたのだった。
(眼をつむっちゃ、駄目だ…。)
私はハンドルを廻し続けた。
景色のスライドの中に、幾つも黄昏の空があった。
「ただ、不思議なのは、こんな面白い乗り物に、朝も今も客がほとんどいなかった事だ…。」
私は云った。
「昼間はきっと、混んでたんじゃないか?」
柳沢が云った。
「ジェット・コースターは朝から満員だったぜ?」
「みんな面白いって事を、知らないのじゃないかしら?
自分達でスリルを創り出すものだから…。
掘り出し物だったのよ。」
「そうかもな…。
名作だよな。 『スカイ・ダイバー』は…。」
急に肌寒さを感じた。
空はまだ半分明るかったが、太陽は既にその姿を消していた。
「さて、じゃあ、行きましょうか…。」
世樹子とノブは歩き出した。
「どこへ行くんだい?
そっちは出口だぜ。」
私と柳沢は立ったままだった。
「まだ、閉園時刻までは間がある。」
「まだ、何か乗るつもり…?」
「当たり前だろ。」
柳沢は元の顔色に戻っていた。
「もう、想い残した事はないのかい?」
「ええ…、まあね。」
「まだ、一番大事なものに乗ってないよ。
日が暮れてから乗ると、最高のものに…。」