愛を抱いて 21
「嘘をつくのがそんなに悪い事なら、俺は既に大悪党だな。」
バス通りを渡って、狭い路地を進んだ。
「香織とは別れるよ…。」
私は云った。
「そんな事、冗談でもあまり簡単に云うものじゃないわ。」
「本当さ。」
「駄目、信じないわよ。
さっき、自分で大悪党だって云ったじゃない。」
「君の事とは関係なく、前から彼女とは別れるべきだって思ってたんだ。」
「…どうして?」
「俺と彼女とは、もう疾っくに終わってるんだよ。
いや、何も始まらなかったと云う方が正しい…。
俺はね、今まで自分が彼女を愛してるって思った事は、一度もないんだ。
確かに彼女と喋ってると愉しいし、彼女の言葉には興味を惹かれる…。
でも、俺は彼女を愛してはいないんだ。
好きでもない女と、俺は付き合い始めたのさ。
そういう男なんだ。」
「そうなの…。
愕いたわ…。」
路は細く折れ曲がっていた。
「やっぱり、大悪党だったろ?」
「いいえ、私が愕いたのは、鉄兵君が本当に香織ちゃんと別れるつもりだって事によ。
本当に悪い人は、好きでもないのに付き合った、なんて云わないわ。
それに鉄兵君が悪い男なら、私だって、もう悪い女よ…。」
「前に云った通り、俺は恋愛に関しては、軽蔑して然るべき最低の男だから…。
君とだって、ほんの軽い気持ちで付き合おうとしてるのかも知れないんだぜ。」
「気持ちなんて、どうでもいいわ…。」
飯野荘までは行かず、児童公園の前で彼女と別れた。
そして私は雨上がりの夜の下を、三栄荘へ向かった。
〈四一、雨の夜〉
42. 映画観賞会
「そんなに面白いの?」
香織が云った。
「うん。
みんなが素晴らしいと云うかどうかは判らないけど、面白い事だけは保証するよ。」
私は云った。
「タイトルは全然聴いた事ないけど、どんな映画なんだ?」
柳沢が云った。
「愛をテーマにした、サスペンス映画なんだ…。」
電車は新宿に到着し、4人は京王線に乗り換えた。
「でもあなた、私達の誰も観た事のないそんな映画、よく観に行ったわね。」
「俺も観たのは偶然さ。
高校の時、2本立てでやってて、片方は何だったかもう忘れてしまったけど、その時はそっちを観ようと思って行ったんだ。」
「そしたら偶然一緒に観た、その映画の方が素晴らしかったと…。」
「うん。
まあ、この映画を観て何も感じない奴は、映画の解る人間とは云えないと思うな。」
「何か狡い云い方ね。」
「鉄兵君が良いって云うのだから、きっと良い映画だと思うわ。
私、とっても楽しみよ。」
世樹子が云った。
10月27日の夜、我々は「愛のメモリー」という映画を観るため、京王線の下高井戸駅に降り立った。
映画は派手なカー・アクションで始まり、車が爆発炎上するとスクリーンは一転、しっとり落ち着いたムードになり、ストーリーは静かにゆっくりと流れて行った。
そして恋愛調のストーリーは、次第にサスペンスの香りを漂わせ始め、クライマックスへ向かうに連れ、展開の速度を増して行った。
ドンデン返し、…裏切り、復讐、…そして哀しみ…。
またドンデン返し、…愛、真実、…ハッピーエンド。
場内が明るくなって、我々は立ち上がった。
そして、下高井戸の二流館を後にした。
「ザボン」の椅子に深く腰掛け、私は店の中央で音楽に合わせて点滅を続けるライトを眺めていた。
「演出、構成とも非常にしっかりしていて、云うなればありふれたパターンに沿ったものだったな。
地味な映画だけど、どこか印象的だった。
それから、ヒロインのあの女優…。
最初はそんなに美しい女性だとは思わなかったが、観終わった時にはファンになってた…。」
柳沢は語った。
「あなた、いったい誉めてるの、けなしてるの?」
「勿論、誉めてるのさ。
そうは聴こえなかった?」
「まあね…。」
香織はダージリンを一口飲んだ。
「ストーリーなんてもう出尽くしていて、新しいものになんか、まずお眼にかかれやしない。」
柳沢は云った。
「だから、ありふれたもので充分さ。
新しいものは造れないからって、故意にストーリーのないものにして、それを観せられ退屈するよりは、よっぽどましさ。
そして名画の条件というのは、初めはちっとも美しく観えなかったヒロインが、最後にはとっても綺麗に観えてしまう事だ。」
「なる程…。
でも、初めからヒロインが美しい女性だった場合はどうなるの?」
香織が訊いた。
「俺は、美しい女性がヒロインをやる映画は観に行かない事に決めてるんだ。」
「じゃあ、あなた、ビビアン・リーやバーグマンも最初は綺麗だと思わなかったって云うの?」
「…『風と共に』や『カサブランカ』を観る前の事なんて、もう覚えていない。」
「鉄兵君、どうしたの?
ボーッとして…。」
世樹子が私に云った。
「今夜観た映画の余韻に浸っているのさ…。」
私は云った。
「しかし、君等は毎回映画を観た後で、よくそんなに喋る気になれるな。」
「あら、いけなかったかしら…?」
香織が云った。
「鉄兵は、すぐ作品の内容に酔っちゃうタイプだからな…。」
「やはり、名画というのは、古い映画の中に沢山存在しているよな。」
柳沢は指先のフィルターを見つめながら云った。
「そうね。
私は昔の映画なんてほとんど知らなかったけど、東京に来てみんなと一緒にそういうのを色々観に行って、全部良かったわ。」
世樹子が云った。
「俺達が、これは良い映画なんだって、観る前から再三伏線を張るから、良い様に思えて来ちゃうんだろ。」
私は云った。
「私達の様に才能も知識もない者が、勝手にあれこれ批判するのは、一生懸命手掛けた人達に対して失礼過ぎるけど、でも、どうしても観に行きたいって思うロードショーって、滅多にないわね。」
香織が云った。
「映画産業が不況に陥った頃から、おかしくなったと思わない?」
柳沢が云った。
「そうね…。
2時間余りの物語なんて、テレビで充分実現できるものね。
わざわざ映画館まで足を運ばせて観せるために、テレビにはない新しい価値を持たせようとして、その工作がかえってつまらなくしてるのかも…。」
「テレビとは違うものである必要なんてないよ。」
私は云った。
「テレビが普及する前から、テレビの前から映画はあったんだ。
その頃、映画は大衆文化だったはずさ。
そして今でも、そうあるべきなんだ。
それが難しく学問的になる事が、進歩だと思うのは間違いさ。
何よりもまず、映画は面白くなければいけない。」
「ごもっともだけど、あなたが普段云ってる事と、少し違ってはなくて?」
「いや、俺と鉄兵が使った大衆映画という言葉は、実は大衆が造った様な映画って意味なんだ。」
柳沢が云った。
「誰にでも造れそうな映画っていう…。
映画を観てると、映画人には2種類の人間しかいない事がよく解る。
面白い映画を撮れる者と、つまらない物しか撮れない者と…。」