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愛を抱いて 21

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41. 雨の夜


 眼が覚めて、少し眠っていた事に気づいた。
向かいの建物にも、すぐ前の小さな通りにも、朝の光が降り注いでいた。
街はもう活動を始めたらしく、どこからともなく、ざわめきが聴こえていた。
時計を視ると、6時であった。
つい2時間ばかり前には、寒さと静けさに包まれていた事が、まるで嘘の様に思えた。
世樹子は、私の左腕の付け根辺りに顔を埋めていた。
「鉄兵君、起きたの…?」
突然、耳元で声がした。
「何だ、君は先に起きてたのか…。」
「ええ…。
気分はどう…?」
彼女は顔を上げた。
私は何人もの寝起きの女の顔を知っていたが、彼女の薄化粧の眉の下と艶やかな白い肌には、一遍の翳りも見えなかった。
「背中が少々痛いほかは、別に普段と変わった処はない…。
どうやらお互い、風邪を引かずに済んだみたいだな。」
「だって、ゆうべは温かかったもの…。」
同じ様に泊まり込みを行った周りの人間達も、ちらほら眼を覚まし始めている様子だった。
我々は毛布を折って上半身だけ起き上がった。
私は煙草に火を点けてから、痺れ切った左腕を摩った。
「あ…、御免なさい。
私ったら、腕枕のまま眠ってしまって…。
大丈夫? 
痺れてるんでしょ…?」
「平気さ。
壊死は免れたみたいだ。」
「本当に御免なさい。
とても気持ちが良かったものだから…。」
「気にする事はない。
今度、君の膝枕を借りる口実ができて、俺は喜んでるんだし…。」
そう云って私は、缶コーヒーを買いに立ち上がった。

 7時頃、係員が出て来て整理券を配った。
サン・プラの前には、チケットを買い求める人間の長蛇の列が出来上がっていた。
整理券を受け取ると、私と世樹子は朝食を食べにサンモールの「マクドナルド」へ行った。
「食べ終わったら、君はすぐ飯野荘へ戻りなよ。」
「でも、チケット…。」
「チケットを買うのは1人いれば充分さ。
さっき訊いたら、1人2枚まで買えるって。」
「何か悪いわ。
ここまで来たら、最後まで付き合うわよ。」
「君は試験の前日に泊まり込んだんだから、それで充分さ。
あまり寝てなくて辛いとは思うが、ちゃんと英検を受けて欲しいな。」
「…解ったわ。
じゃあ、そうするわね。」

 我々は再びサン・プラの前に戻って来た。
「毛布はどうするの…? 
1人で3枚も持って歩けないでしょ。
やっぱり…。」
「どうせその内、柳沢がやって来るさ。」
「そう…?」
「君はもう行きな。」
「うん、じゃあ…。」
「試験、頑張ってね。」
「うん、ありがとう…。」
世樹子は飯野荘へ帰って行った。

 8時頃、柳沢は現れた。
「よぉ、ゆうべはよく眠れたか?」
私は、彼の肩に掛かったDバッグに眼を奪われた。
「まあな。
お前、その恰好…。」
「ああ、今日はサークルの用事があるんでな。」
「そうなのか…。」
私は、柳沢がやって来たら彼に整理券を渡して、自分は毛布を1枚だけ持って三栄荘へ帰り、すぐ眠ろうという腹づもりであった。
「本当に柳沢君、来てくれたのね…。」
声に振り向くと世樹子が立っていた。
彼女は服を着替え、バッグを手に下げていた。
「プレイガイドは10時に開くんだったな。
それじゃあ、鉄兵、頑張れよ。
もう少しの辛抱だ。」
大学へ行く柳沢に失望し、心配する世樹子に大丈夫だと云い、私は中野駅へ歩いて行く二人を見送った。

 9時にサン・プラの玄関口が開いた。
ロビーの椅子に腰掛け、私は睡魔との格闘を続けた。
時計の針が10時を廻って、私はやっと2枚のチケットを手にした。
「それじゃあ、武道館でまた逢いましょう。」
赤いサテンのジャンパーの女とその連れは、そう云うと疲れた足取りで去って行った。
私は3枚の毛布を肩に抱いてサン・プラを出ると、中野通りの舗道を最後の気力を振り絞って、ゆっくり北へ歩いた。
眠気で頭の中がぼんやりしていて、行き交う人々の視線が気になる事はなかった。
ただ、三栄荘までの道のりが、やけに遠く感じられた。
毛布が重く肩に乗し掛かって来た。
瞼がひたすら重かった。
「あと少しだ…。
部屋に着いたら、思いっ切り眠るぞ…。」
私は心でそう叫びながら、歩き続けた。

 午後から降り始めた雨は、夜に入っても止まなかった。
私は濡れたままの傘を細く巻いて、新宿駅の西口を出た。
10月21日、私は小田急の中のレストランで午後7時に、世樹子と待ち合わせていた。
自動ドアを抜けて店の中へ入って行くと、一番奥のテーブルに彼女は居た。
「食事は?」
テーブルの彼女の前に、コーヒー・カップだけが置かれているのを見ながら私は云った。
「これからよ。
一緒に食べようと思って…。」
「そう…。
まあ、愚問だったな。
待ち合わせた店へ行って、女性が先に食べ始めてたら、こっちは愕いちゃうもの…。」
ウェイターがテーブルの横へやって来た。
メニューを眺めながら二人は注文を述べた。
「濡れなかった?」
ウェイターが行ってしまってから、世樹子は口を開いた。
「うん、少しだけ…。
雨の夜に二人で逢うっていうのも、ロマンチックで良いさ。」
「そうね。
でもここには窓がないから、外は視えないわ…。」
「夜景の見える店の方が良かったかな…?」
「いいえ。
雨が降ってる外の景色を想像できる方が良いわ。
視えてたら、それ以上は素敵にならないもの…。」

 彼女には赤いパラソルがよく似合った。
食事を終えて小田急を出ると、二人は雨の舗道を西へ歩いた。
辺りには超高層ビルが建ち並んでいた。
その中の一つである「新宿住友ビル」へ我々は入って行った。
エレベーターを降りるとそこは、パブやレストランが沢山看板を出しているフロアだった。
サークルの先輩が云ったパブの名前を、私は見つけた。
酒がテーブルに運ばれて少しすると、ショー・タイムになった。
女装をした男性が過激なショーを演じた。
彼女は愉しそうに何度も悲鳴を上げた。
心持ち酔ってビルを出ると、雨は霧雨に変わっていた。
駅へ戻る途中、私は自分のスニーカーの紐が片方解けているのに気づいた。
舗道にしゃがんで紐を結び直した。
彼女は少し先まで歩いてから、振り返って待っていた。
紐を結び終えて、私は立ち上がった。
白い靄の中に彼女は立っていた。
それに煙って彼女の顔が見えなかった。
私は、彼女の名を呼んだ。
「世樹子…。」
「何…?」
私は真っ直ぐに、彼女の処へ歩き出した。

 中野駅の改札を出ると、雨はすっかり上がっていた。
二人はサン・プラの前を通り、区民体育館の横を抜けて、早稲田通りへ出た。
電報電話局の角を右へ折れて、静かな路に入った。
「鉄兵君…。」
世樹子が云った。
「私、段々悪い女になって行くみたいよ…。」
「…香織の事かい?」
「鉄兵君の部屋に泊まった次の日に、ヒロ子の処に泊まったって、香織ちゃんに初めて嘘をついたけど、今日もまた、嘘を云って出て来たわ…。」
作品名:愛を抱いて 21 作家名:ゆうとの