愛を奏でる砂漠の楽園 04
第十五夜◆決戦の日
鉄格子が嵌まった窓から差し込む光に眩しさを覚え、ユスフは長い蜂蜜色の睫毛に彩られた瞼から左右の色が違う瞳を露とした。
「んんッ……」
いつの間にか眠ってしまったようである。
長い前髪を耳へと掛けながらユスフが身を起こしたのは、冷たい石畳の上であった。何も無いこの部屋は、宮殿の地下にある牢獄である。
シナンが重症を負ったという知らせを受け屋敷から離れた後、ユスフは漸く先程聞いた話しにおかしい点がある事へと気が付いた。
誰の元へと自分が払い下げられたのかという事をシナンは知らない筈である。そして自分が何処に居るのかという事を、王がシナンへと話したとも考え難い。
乗せられた馬車は、シナンの元へと向かう物では無いのかもしれない。
そう思った時には既に全てが遅かった。引き摺られるようにして馬車から下ろされ、地下牢へと連れて行かれてしまった。
ここへと連れて来られる迄に聞いた会話から、シナンが王へと謀反を起こしたという言葉は真実であったようだ。
何故ここへ連れて来られたのかという事よりも、その事を知った今のユスフには、シナンが無事であるのかという事の方が重要であった。
屋敷へとやって来た兵士の言葉が、自分を大人しくさせる為の嘘であったのだという事は既に分かっていたが、それでもシナンの事が心配であったのだ。
牢屋の中へと冷たい足音が流れ込んで来る。
誰か来たのだという事が分かり、鉄格子の向こう側にある廊下へと視線を遣る。鉄格子の前へと現れたのは、昨日ユスフをここへと投獄した兵士であった。
「出ろ」
南京錠を開け牢屋の中へと入って来た兵士に、逃げる事が出来ないように両手を麻縄で一つに纏められ、地下牢から連れ出された。
「ユスフを連れて参りました」
ユスフが兵士に連れて行かれたのは、宮殿の中程にある独立した建物の中であった。
豪華ではあるのだが何処か退廃的な空気に包まれた部屋の奥には、玉座へと腰を下ろしている王の姿があった。
最後に姿を見てからまだ数日しか経過していないというのに、王は以前見た時とは別人であるとさえ思える程に変わっていた。
土気色になっている顔には苦悶の表情が浮かび、瞳はどこか虚ろなものであった。そんな王の姿と宮殿の中に殆ど兵や使用人の姿が無い事から、王が不利な状況にあるのだという事をユスフは察する事ができた。
悪い予感がする。
「何故ここに私を?」
現状を考える事によって、ここへと連れて来られた理由を一つしか思い付かない。しかしそれを信じる事が出来ず、ユスフは汚い物でも見るかのような視線をこちらへと向けている王の言葉を待った。
「シナンを呼び出す為に決まっている。お前を引き渡す事との交換条件に、ここへ一人で来いという事を伝えてある」
思っていた通りであったようだ。人質へとする為、自分をここへと連れて来たのだ。
「……私などの為にシナン様が来る筈などありません」
「それはどうかな?」
ユスフの言葉を鼻で笑いながら王がそう言った時、部屋の中へと一人の兵士が入って来た。王の元へと歩み寄った兵士が何か耳打ちする事によって、王の顔に醜悪な笑みが浮かぶ。
「シナンが来たようだ」
「そんな!」
シナンが自分に心を許してくれているという事は分かっている。そうでもなければ、極秘事項である王に反旗を翻そうとしている事を教えてくれたりなどしない筈である。
それにも拘わらず、シナンがここへと来たという王の言葉をすんなりと信じる事が出来なかったのは、自分の命よりも民の幸せの方が重いものであるとしか、ユスフには思え無かったからである。
一人でここへと来るなど無謀な事でしか無い。
そして心を許してくれてはいたが、シナンが持っている感情は、王から払い下げて貰おうとまでは思わない程度のものでしか無いと思っていたからである。
なのにどうして?
困惑の面持ちを浮かべていると、両手を一つに纏めている麻縄の端を持った兵士が王の元へと向かって歩き出す。素直に従う事などできず地面へと足を踏みしめてみたのだが、抵抗しきる事が出来ずやがて王の傍へと行く事になってしまった。
遠目では気が付かなかったが、王の顔色が悪いのは不利な状況へとなっている事だけが原因では無いようだ。深傷を負っているのか、兵士から麻縄の端を受け取った王の額には玉状の汗が滲んでいた。
こんな状態になってまでまだシナンに抵抗する王の気持ちが分からない。
シナンは決して非道な人間では無い。素直に王位を渡せば、命までは取ろうとしない筈だ。
王位を失えば王もただの人間へとなる。今更ただの人間へと戻る事が出来ず、命を掛けてまで王は自尊心を守ろうとしているのかもしれない。
愚かな人間である。
こんな愚かな人間がこの国の最高権力者であってはならない筈だ。この愚かな男の代わりにこの国の最高権力者となって貰う為にも、ここへとシナンに現れて欲しく無い。そんなユスフの思いも虚しく、扉が開け放たれると大柄な一人の男が部屋の中へと入って来た。
餓えた獣を思わせる漆黒の瞳が印象的な男の名をユスフは呟く。
「……シナン様」
「よく来たなシナン」
王がそう言いながら両手を拘束している麻縄の端を引いた事により、ユスフは王の腕の中へとすっぽりと収まる格好へとなる。ユスフが人質であるという事を示すような恰好へとなった王を、シナンが睨み付ける。
「約束通り一人で来たぞ」
「何故王との約束を守りなどしたのですか!」
王の腕を離そうと体を揺らしながら、ユスフはシナンへと向かって叫んだ。
王が約束を守る筈など無い。このまま自分など置いてここから逃げて欲しい。
そんな願いを込めて叫び声をあげたというのに、シナンは全くここから逃げだそうとはしなかった。
「お前を助け出す為に決まっているだろ」
「ふん。お前がユスフを助け出す事ができる筈など無い」
鞘から剣を抜くような音が聞こえたと思うと、不気味な光を放った剣が眼下へと露わとなる。王の手にある剣が向かった先は、ユスフの喉元であった。
喉元に冷たく鋭利な感触を感じ、恐怖によって顔をひきつらせたユスフの耳に、シナンの叫び声が流れ込んで来る。
「ユスフ!」
「お前はここで死ぬのだ。そして、お前もな」
王の視線がシナンからユスフへと移る。
「約束を違えるつもりか?」
「最初から約束を守るつもりなど無い」
怒りに満ちた表情へとなっているシナンを気にする事無く、当然のようにしてそう言った後、王が剣へと力を込めた。
「最後に良いことを教えてやろう」
喉へと鋭い痛みを感じ顔を歪めていると、王が愉悦を孕んだ声でそう切り出した。
「お前の仲間が殺される事となったのは、シナンと出会う事によってお前がこの国へと災いを運ぶ存在へとなるからだ。――そう、お前が居なければ、お前の仲間達は殺されずに済んだという事だ」
家族同然の者達が殺される事となった原因が自分であるのだという事と、家族同然の者達を殺すように命じたのが王であったのだという衝撃的な事実を知った事により、ユスフは呆然とした表情へとなる。
作品名:愛を奏でる砂漠の楽園 04 作家名:蜂巣さくら