愛を抱いて 16
昼間は明る過ぎて、隠しておきたい心の底まで視えてしまいそうなんだ…。」
心の底には、ずっと降り積もらせた哀しみがあった。
見慣れた市ヶ谷の駅前を通って、車は九段下を抜けて行った。
「綺麗ね。
どこ…?」
世樹子が訊いた。
「銀座さ…。」
叶えたい夢の行先を捜し求めるかの様に、我々は夜の街を彷徨っていた。
「朝まで、ずっとこうしていたいな…。」
私は云った。
「鉄兵君、明日体育なんでしょ?
何時から…?」
「9時までに武蔵境…。」
「大変ね。
起きれるの…?」
「一人じゃ、きっと無理だな。
柳沢、起こしてくれないか?」
「知るか…。
こっちは朝までに、横尾に車を返さなきゃいけないんだ。」
左手にタワーが見えた。
「こうして、みんなでいると、夜も温かいのね…。」
ヒロ子が云った。
「ずっと夜は、私を冷たく見つめてたわ…。」
車は六本木に入った。
〈三一、深夜のドライブ〉
32. 木曜日のデート
翌朝、耳のそばで時計が鳴った。
翌朝と言っても、私が布団に入ってから4時間しか経ってなかった。
私は低血圧のせいで朝の目覚めに弱かった。
腹這いになって、煙草を口にくわえた。
瞼が重かった。
煙草を吹かしていると、ノックの音がした。
階段を上る音が聴こえなかったので、私は微かに愕いた。
「どうぞ…。」
私は云った。
鍵は掛かってなかった。
静かにドアが開いた。
「起きてたの…。」
世樹子は云った。
部屋に入ると彼女は布団のそばに膝を付き、枕もとに缶コーヒーを置いた。
「起こしに来てくれたのかい?」
私は身体を半分起こした。
「そうよ。
愕いた?」
「いや。
何となく、来る様な気がしてた…。」
「あら、どうして?」
世樹子が、ファミリーの皆が集まるわけでもないのに、一人で私の部屋へやって来たのは、その朝が初めてであった。
「理由はないんだ。
ただ、何となくさ。」
「そう…。
でも、来る必要はなかったわね。
ちゃんと起きれたみたいだから。」
前夜、2台の車は中野へ帰って来ると、飯野荘の前で4人の女を降ろした。
そしてフー子を降ろした後、車は三栄荘の前に停まった。
「そんな事はない。
君が来てくれたお蔭で、起きる事ができた。」
「嘘よ。
先に起きてたじゃない…。」
柳沢は、このまま横尾の家へ行くと云い、ヒロシもレンタ・カーを返すために、ファミリアとミラージュは走り去った。
「確かに、君がノックする直前に目が覚めたが、いつもは時計のベルなんて全く役に立たないんだ。
きっと、君がこのアパートに近づいたのを感じて、身体が目を覚ましたのさ。」
世樹子は微笑んだ。
「もう八時半よ…。」
世樹子が云った。
「ああ、本当だ…。
じゃあ、モーニングでも食べに行くか。」
「何、呑気な事云ってるの?
体育に遅れちゃうわよ。」
「世樹子、今日授業は?」
「私は午後からよ…。」
「じゃ、俺も午後から体育に出よう。」
「そんな…。
駄目よ…、せっかく起きたのに。」
「いいんだよ。
午後からの体育理論にさえ、出席すれば…。」
2人は三栄荘を出て、沼袋駅の方へ向かった。
「私、起こしに来て、逆にサボらせちゃったみたいね…。」
「赤いサクランボ」で「モーニングBセット」を2つ注文した後、彼女は云った。
「まあ、君が来なければ、きっと体育に行ってただろうな…。」
「御免なさい…。」
「謝る事はない。
これでも俺は喜んでるんだぜ。」
10月1日、その日も秋晴れの爽やかな一日になりそうだった。
「さて、どこへ行こうか?」
「私はどこでも良くってよ。」
「世樹子、テニスをしたいって云ってたよね?」
「ええ…。」
「じゃあ、オート・テニスをやりに行こう。
午前中に身体を動かすってのも、いいものだ。」
「いいわよ。
どの道鉄兵君は、体育の日だったんですものね。
でも、こんな時間からできる処、あるの…?」
「伊勢丹の屋上にあるんだ。」
デパートの開店までには、まだ少し時間があった。
私と世樹子は「赤サク」で充分時間を潰してから、電車に乗り、新宿へ向かった。
「君は忘れるって云ってたけど…、」
伊勢丹へ向かう舗道を歩きながら、私は云った。
「…やっぱり、忘れちゃったかい?」
「何の事?」
「いや、忘れたのなら、いいんだ。」
9月25日に、2人が偶然六本木のディスコで逢って、チークを踊った時の事を、私は訊いたのだった。
「…忘れられるわけないでしょ…。」
世樹子は呟く様に云った。
「…そう。
良かった…。
よぉし、何か急に元気が出て来たな。」
私は右腕を大きく廻した。
「私、テニスって、ほとんどやった事ないの。
教えてね。」
「任せろって。」
私は人に教えられる程、テニスが上手いわけでは、勿論なかった。
「あれ…?」
二人は伊勢丹新館の入口の前に立っていた。
入口はシャッターに閉ざされ、「本日定休日」の表示板が立ててあった。
「そうよ…。
木曜は定休日だわ…。」
二人は、やって来た路を再び歩き始めた。
「頭に来るよな。
選りによって木曜に休まなくたって好いものを…。」
「やっぱり、体育に出なさいって事よ。
今からなら、まだ2限に間に合うんじゃなくて?」
「いや、こうなったら、意地でも体育には行きたくない。」
「どうするの…?」
「そうだな…。
ねえ、一緒に映画を観ない?」
「…いいわよ。」
歌舞伎町の中に、周りを沢山の映画館に囲まれた広場があった。
広場の中央には小さな池があり、その池のほとりに、私と世樹子は腰掛けていた。
「さて、どの映画を観ようか?」
「私はどれでも、いいわよ。
でも鉄兵君、こんなのは、あまり好きじゃないんでしょ…?」
「まあね…。
世樹子は?」
「私はみんなと違って、映画に全然詳しくないから…。
でも、鉄兵君達が馬鹿にしてる大衆映画って言うのなんかでも、面白いと思うわよ。」
「そう…。
俺もカッコつけてるだけで、実は面白ければ何でもいいんだ。
あれなんて、どう?」
「『悪霊島』…?
面白そうね…。」
「よし、決まりだ。」
二人は池のそばを離れた。
これは予想できたはずの事だったが、上映開始は正午からであった。
窓口の時間表を視て、世樹子は残念そうな顔をした。
「さて、行くか…。」
「そうね…。」
二人は映画館を後にした。
「あら…、ねえ、どこへ行くのよ?」
立ち止まって、世樹子は云った。
「どこへって、サテンへ行くんだろ?」
「サテン…?
新宿駅へ行くんじゃないの?」
「サテンで12時まで、時間を潰そう。
君はどうしても授業に出なくちゃいけない…?」
「どうしてもって事は…。
私より、鉄兵君でしょ?」
「俺はもう全休のつもりだぜ。」
「何云ってるのよ。
体育の単位、落としちゃうんじゃないの?」