星追い人
「随分、手荒い歓迎ですね。僕、何かしました?」
溜め息を吐きながら、ローグは肩を竦めた。きつく縄で縛られた腕をごそごそと動かすものの、微かに擦れる程度で緩む様子はない。指でパンツのベルトループ辺りを触る。こつ、と当たるその感触を確かめてから指を下ろした。
「旅人さんは賢明です。多勢に無勢ですから、大人しくして頂いてありがたい」
「…お褒めに頂き光栄です」
ガレンが部屋を出たところを見送り、ローグが泉へ行こうと支度をしている最中、部屋に押しかけられた。それぞれの手には包丁や棍棒やクワなどの鈍器や凶器が握られていて、顔は緊張で崖の表面のように険しく強張っていた。降参という意思表示として、彼はジャケットを羽織ってから両手を軽く挙げ、屈強そうに見える男に、両手を後ろに縛られた。それが十数分前のことである。それから泉の方へ連れて行かれ、ゴポゴポと泡立つ濁った水を見せられた。
(あの宝玉は、この泉の濾過(ろか)装置の役割を果たしていたのか)
集落の人間が静かに囲む泉を見て、ローグは小さく息を吐いた。
「私たちには、もう時間がないのです。瓶(かめ)に残っている水も、もう残り僅かです。畑の作物も水が足りず萎びています。生きるためには仕方がないことなのです」
老人がそう静かに紡いだ。
「だから、僕を生け贄として殺すんですね」
「やはり、旅人さんは賢明でしたな。食事を口にしなかったのもそのためでしょう」
「ガレンが食い散らかしてすみませんね」
「あの生き物のことなら心配しないでください。私たちが責任を持って世話をしましょう」
「それはありがたい。あいつ大食いなんで、ここが飢饉に見舞われるかもしれませんが」
茶化すように言えば、静観していた男の一人がローグへ殴りかかろうと動いたが、他の者に止められた。泉の部屋から出た彼らは、老人を筆頭に例の穴へ向かう道を進んで行く。壁画は、ある赤い衣の女性が穴に落ちたところを最後に、消えた。その絵はとても新しかった。うっすらと灯り石に照らされる人間の表情は、いたって自然な表情を浮かべている。
ぱらっと、上から砂と土が頭の上に落ちてきた。
それからまた歩いて行くと、開けた景色が先に見え、それに沿って列が横に割れ始めた。穴を囲むように設けられた溝と、落下防止のためと思われる柵が立てられていた。上にも空いている穴を見上げた時、そこにはぽっかりと丸い星空が、見えた。
「やっぱりそうだったんだ」
ローグは小さく微笑みながらそう呟いた。
ローグの後ろに控えていた男が腕を引き、強引に向かい側の祭壇らしき場所へと引き摺るように連れて行った。その祭壇の上の壁面には大きく、踊り子と思われる赤い衣を纏った女性が、聖母のような温かい笑みを浮かべている絵が描かれていた。
「状況、わかってんのか?」
野太く逞しい声を掛けられ、ローグは相槌を返した。
「もちろん。そこまで馬鹿じゃないよ」
詩の合唱が始まった。
穴に声が谺(こだま)し、様々な音が交錯する。
「あんたは、僕に死んで欲しい?」
「死ねば俺たちが生きられるからな」
「そうだよな。でも、僕はここの人たちが死ねば生きられる。わかってくれるよね?」
ローグの手に握られた小型のナイフを喉に突き立てられた男は、目を剥き、口を動かしてから手を掴もうと腕を上げた。しかし、ナイフは抜かれたことによって、血も気力も失せた男は、青い衣を掴まれそのまま穴の底へと落とされた。ローグは、細かな切り傷と擦り傷で赤くなった手を労るように、撫でた後、もう片方の手首に結ばれた縄を切り落とした。そして、ゴミを捨てるように穴の中へと投げ入れた。聖なる詩の合唱が、阿鼻叫喚となった。空気を裂くようなソプラノの金切り声や、咆哮を思わせるバスの怒号など様々だ。そして逃げ惑うように、人が通路へと捌けて行った。
そんな中老人が顔中に脂汗を浮かべ、笑う膝で一歩一歩ローグに近付いてきた。
「な、なぜこんなことを」
「こんなこと?殺されそうになったら、そりゃあ殺すでしょ」
鼠ほどの小さなナイフをくるくると弄び、飄々とした態度でそう答えた。
「綺麗に聞こえる伝説でも、実際は違うんでしょ。宝玉は盗まれていなかった。けれど雨は降らなくなってしまった。王は水神に仕えている踊り子に責任を移し、生け贄としてこの穴に落とすことで救われようとした」
玉の汗を浮かべ、目を白黒とさせる老人を見ながら淡々と続けた。
「その子孫、爺さんだよね?泉の奥深くに何があるか知った上で僕に忠告したんでしょ?」
「ま、さか……いず、いずみが濁ったのは…」
「僕が宝玉を外したから」
「じゃあ、雨が降らなくなったのは…」
「それは知らない」
それほどの時間を経ずに戻ってきた集落の民は、怒り狂った般若の面持ちで凶器を手にしていた。ローグを捕らえようとした時とは質の違う、恨みが籠もった顔。ローグの両脇から、じりじりと近付いてくるその目は、ほとんどが白く剥かれていた。月明かりに照らされた凶器の数々が、鈍い光を帯びて存在を主張している。
(さすがに無傷じゃ済まなそうだな)
現状に焦りを覚えたからなのか、体が熱を帯び始めるのを感じたローグの額に、うっすら汗が湧いた。生唾をごきゅりと飲み、息を吸った。
「ローグ!」
上から降ってきた小さな影に笑みを漏らし、「ナイスタイミング」と地面を軽く蹴った。
ガレンは小さく舌を打ち、体の至る部位の筋肉を蠢かせ、徐々に質量を増やした。口は優に人一人を飲み込むことができるほど大きく、堅固な角は羊の角のように渦を巻き、毛は風に靡くほど長く伸びた。逞しい足に生えた爪は、岩肌を抉ることができるほど大きく強い。ふっさりとした長く大きな尻尾を自在に扱い、暗い穴へと真っ逆さまに落ちるローグの体を叩(はた)き上げ、自身の体にしがみつかせた。
「助かった。怪我はしたくないんだよな」
「だったら無茶せず、最初から俺を頼っておけばいいのに!」
「いいさ、今更どうこう言っても変わらない」
「俺はこれからの話をしてるの!」
「はいはい、それはこれが終わった後にな。上に上がってくれ」
ガレンは言われた通り、ハーケンのように岩肌に爪を突き立て悠々と上った。ローグはガレンの毛を握りしめ、振り落とされないよう力を入れた。溝のすぐ上で留まったガレンに満足そうに笑ったローグは、驚愕と憤怒、そして困惑が広がっている彼らを見下ろした。そして、穴を覗く小さな影を見上げ、声を上げた。
「君の運命を変えてやる!」
影はハッとしたように少し動いた後、口を一文字に結んだ。
「生きたいか!当然のように人の犠牲になりたいか!選べ!」
柔らかいその手から血が滲む。小さな少女は、叫んだ。
「生きたい!死にたくなんて、ない!」
満天の星空から、雨が落ちた。
瞬間、ビギッと鈍い音がガレンの足下から聞こえた。その音を聞き、顔を見合わせた集落の民に一瞥を向けてからガレンに駆け上がるよう告げた。
「僕の荷物は?」
「大丈夫、部屋から回収して上にあるよ」
「よくやった。褒めてあげよう」
「報酬は干し肉二つね」
「約束はできないなあ」