岩窟の秘石
山内には妻がいたものの、妻には「愛欲」つまり、男女の性愛のことであり、それは一時的には満足感を与えることは知られていたが、その後に猛烈な飢餓感を伴い、さらに依存性があることが知られていた「愛欲」は感じていたのは自ら認める以外にない。そして妻が山内と結婚に及んだ理由は、この世の常識である山内自身の「メカニックマン」としての地位と収入以外の何ものでもなかったのだ。そのことに山内自身、気づいた時にはすでに「孤独」という病の宣告を受けたあとであった。「孤独」の特効薬である「愛」つまり、まず人間機械自身の存在を無条件に喜んでもらえることが重要であり、そして働くということ以前にその存在の唯一性が確保されているということが大前提であり、「人間機械は働くから愛されるのではない、愛されているという実感をその存在自身が自明のものとして感じているがゆえに、働くことができるのだ」という「愛」を、山内はとうてい、この妻から期待することはできない。そのことに山内は苦々しい思いがしたのであった。山内はたった今、帰宅したにも関わらず、再びあの母子の「ポンコツ」たちのことが、頭から離れない。再び路上に飛び出し、そして駅の方へ電動タクシーを拾うために走り出したのであった。
まだ午後2時である。オゾンホールがさらに拡大した地球の日照りは、激しく路面を焼き焦がし、真夏の太陽はこの時ピークを迎える。電動タクシーに乗った山内は先ほど目にした母子の「ポンコツ」を探そうと、泳ぐように目線を走らせる。しかし例会への道筋を再び、電動タクシーで戻るなどということはいまだかつてないことであった。もう一度あの母子に会いたいという思いを強くもっていた山内であった。しかしいくら探しても、もはやあの母子らしい姿はどこにもなかった。山内はこの時、かの教授の言っていた言葉を思い出す。「孤独」の特効薬としての「愛」はまずは、「誰か」から与えられる必要がある。つまり愛してくれる「誰か」を、経由する媒体として必要とするというのが現段階での研究の結論である。気が付いた時には、「孤独」を病む山内はその「愛」してくれる「誰か」をひたすらに求めていたのだった。
電動タクシーに乗っていることに限界を感じた山内は、電動タクシーを下りて走り出し、荒野をさまようのであった。「孤独」を病んだ山内は、もう一度あの母子の「愛」を見たいという思いが心の奥底から湧いてくる。不意に目の前の風景にいつかの夢の中で見た光景を見るような感覚に山内はおちいった。どこかで見た覚えがある光景であった。汗がじとじととにじんでいる。そうこうするうち、汗が流滴となって流れる。太陽はギラギラと容赦なく山内を照り付ける。当たりを360度見回した。一面砂漠かと思っていた山内はふと低い丘陵のあたりに、岩窟があるのに気が付いた。涼を求めるつもりで、その岩窟へと、激しく照り付ける太陽を避けるため、急いだのであった。岩窟に入った山内は穴に逃げ込むと、ほっとしたのであった。山内は穴の出入り口付近でしばらく休んでいたが、奥の方に行ってみたいという好奇心に駆られた。注意深く、のそりのそりと山内は壁伝いに手で確認しながら、奥へと進んでいった。ぼんやりと灯りが見える。そして人影らしいものが、炎の中に揺れている。山内は、ごくりと唾を飲んだ。相手は一人である。その風貌は毛衣を身に着け、腰に皮の帯を締めている。まるで古代イスラエルの預言者のような風貌であった。いったいこんな穴の中一人っきりで何をしているのか。山内は相手の右や左に文字のようなものが書かれている巻き物がたくさん置いてあるのに気が付いた。山内はこの対面が、以前夢で見た光景が再現されていることを直観した。山内はしばらく、相手を注意深く観察していたのであるが、自らの身の安全を悟ったので、声をかけた。その相手は炎を前に巻き物に文字のようなものを書いているのであった。その全身からは、強い使命感を持つ者にだけ与えられている一種独特の存在の光輝を放っていることに、山内は出会った瞬間にすでに気づいていた。「孤独」に病む山内は自ら気づく前に相手に「孤独」の処方薬である「愛」を求めていることを、とっさにいってしまった。その素性すらも知らない相手にである。そして相手は口を開いた。
あなたは、自分が「孤独」だ、といいますが、本当に「孤独」なんでしょうか。あなたは、誰かに愛されていないと感じている、だから「孤独」だという。だけど「愛される」のに「誰か」である必要があるんですか。山内は不意を突かれたように、何を言おうとしているのかと疑問に思い、引き続き相手の言うことに耳を傾けた。例えばですよ、「誰か」ではなく、「何か」ではいけないのでしょうか。「何か」があなたを愛している。大事なのはいいですか、あなた自身が、「愛されている」ということじゃないんでしょうか。確かに、都会の雑踏のなかで、見ず知らずの他人ばかりが行き交う雑踏のなかに、一人でいれば、仲のよさそうなカップルや、家族連れをみて、「孤独」を感じずにはいられず、胸の奥にぽっかりと穴が開いたりして、その隙間を埋めたくなるのは、無理もない。そうして、やむにやまれず、町の裏通りで、こっそりと、つまらないことにふけることになったり、挙句の果てには、犯罪に手を染める輩がどれほどいるでしょうか。でもですよ、そんなことになって、たとえばあなたを愛している「何か」がいるとする。そして、その「何か」が悲しんでることは想像できないですか。その「何か」があなたを愛しているのに、あなたが、自分自身が「孤独」なんだと信じこんでしまえば、あなたを愛しているその「何か」の存在を否定することになると思わないですか。「信じる」という言葉をご存じですよね。「信じる」という行為は相手に向かって自分の心をまず開かないことには成立しえない行為なんですよ。心を開くとはどういうことかわかりますか。つまり、裏切られる、というリスクを背負うことになるんです。隠者はまた、続けた。
しかし「孤独」を信じるのか、それともあなたを「愛」してくれている「何か」を信じるのか。それはあなた自身が決めることです。しかし「孤独」であると信じこんでしまうと、自らの首を絞めるように、結局「孤独」地獄へと、らせん状を描きながら、あっという間に落ちていってしまうんですよ。あなたは、この物質世界、三次元世界がすべてであると、思い込んでいませんか。しかし、あなたもご存じのように、四次元というものもあるんですよ。しかし、この三次元世界は四次元を三次元的な考え方でしかとらえられないんじゃないんでしょうか。