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涼子あるいは……

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床はでこぼこだった。泥が固まって、黒くて大きなかさぶたになっている部分がある。それがはげて床の木板の地があらわになっている部分もある。それらが交錯し入り混じり、まだら模様を描いていた。戯れにかさぶたを蹴ってみると、黒い化石が飛び散った。カウンターまでのたった二三歩が歩きにくかった。
正面には開け放たれた窓がある。カーテンはない。容赦なく熱風が吹き込む。西日が差し込む。室温は三十二度ほどか。
窓の下には、茶褐色に変色した新聞紙や雑誌が床に直接放置されたままだ。窓枠に達するまでに積み上げられている。その周りには、ゴムぞうり、洗面器、その中のカチカチに固まったタオル、消火器、段ボール箱、空き瓶等々が散乱していた。
惨憺たるありさまだった。ひたすら臭くて汚い。まったく、ごみため飲み屋だ。退廃の酒場化だ。
金吾は、新鮮な空気を吸おうとするように窓の外を見る。逆光を浴びて一橋大学の校舎が黒々とそびえていた。あそこの若さとここの退廃が、わずか百メートルほどしか隔たっていないことの皮肉と必然を思う。少々つらくなった。一方、この店の退廃ぶりに、驚きながらもかすかに安堵しているのも情けなかった。
店の亭主は、もう八十をいくつかこえているようだ。隙間だらけの白髪は、大工のように短く刈ってある。この店のどこが大正ロマンなのか。亭主が大正生まれなだけだろうに。
亭主は、わざとのように横を向いて、いらっしゃい、と低くつぶやいた。流し眼で金吾をうかがう様子に、警戒心が見てとれた。初めての客には、俺の人見知りする性癖を露骨に出すぞ、と言わんばかりだ。中には、こういうあしらいに好奇心を抱く者もいるだろう。特に学生や世間知らずのガキが騙されやすい。単に商売の技術であるのに。金吾には内心のおびえを隠すための強がりのように思えた。この手の男に弱虫が多いのを金吾はよく知っている。
亭主はおもむろに正面を向いた。不健康であるのがわかる。長くはあるまい。ねじり鉢巻をした額の下で、まぶたの垂れ下がった細い眼がこちらをうかがっていた。胡乱なおやじだ。塀の向こうにいたことがあるのか。
カウンターに客が一人だけ寄りかかっている。金吾はこの男と今から話をせねばならなかった。金吾は、いやに高い椅子をひいた。脚立に板を打ちつけた代物だった。客の左隣に坐った。
亭主がしわがれ声で訊ねてきた。
作品名:涼子あるいは…… 作家名:安西光彦