涼子あるいは……
金吾は引き戸を背後に閉めて、一歩踏み出した後に立ち止まった。袋田がさっきやったように、部屋の様子に聞き耳を立てた。
袋田は独り言にしては大きな声で言った。
「あれはシロかもしれんな。しかし、しっかり尾行を続けろよ。シロだとしても、もうすぐ犯人と接触するぞ!」
八月六日金曜日午後五時
その店は二階にあった。
国立の駅を右に出て交差点を渡ってすぐのところだ。金吾は福生から電車を乗り継いできた。やっとたどり着いた、といった感じだった。袋田との攻防戦に消耗したあとも、子供たちとのやりとりが待っていた。興奮している子供たちをなだめすかして帰宅させた。
階段の上り口に、居酒屋大正ロマン、とすすけた看板が掲げてあった。一階は不動産屋だ。狭くて暗い階段を上って木製のドアを押し開けた。上のほうでカランと間抜けな音がした。
物置のような十坪にも足りない居酒屋だった。古い民家に入ったときと同じ臭いがした。ただし臭いが強すぎて、金吾は少し涙ぐんだ。
内部の様子はあきれたものだった。
左手に、鮨屋にありそうな分厚いカウンターがしつらえてあった。もとは本当に鮨屋だったのかもしれない。生地があらわなのは、縁の部分と四五脚の椅子の前の、瓶やコップが置かれるあたりだけで、残りは黒く汚れていた。大量の泥水を何度もぶっかけたような汚れの堆積だ。手で触るのさえ躊躇される。その汚れをふき取る気が、店主にも客にも、恐らくは何十年ものあいだ起きなかったのは不思議というしかない。
カウンターの上方に、三本の長大な短冊のようなものが揺らめいている。よく見るとハエとり紙だ。ミイラ化したハエの死骸が、干し葡萄を散らしたように張り付いている。
右手に、木の椅子とテーブルが二組ある。カウンターも椅子もテーブルも、低い天井も三方の壁も、埃と煤と油とタバコのヤニと悪い息のせいで、肝硬変患者の顔色のようにこげ茶色に変色している。それがどうした、どこが悪い、といった、いわば、居直り色を呈している。居直りのつぶやき声やどら声もまた天井と壁に反響しているかのようだ。そんな声に耳を傾けながら、鬱々と酒を飲む男たちを金吾は想像して怖気をふるった。