涼子あるいは……
金吾の驚きと怒りが一挙に破裂した。あれやこれやの妄想が沸き起った。
「どんなことがあったんでしょうかね、ですって? なんで私に聞いてんですか。ほんとに暴行はなかったんですか。涼子はなにをされちゃったんですか。他人事みたいに、あなた、悠長に構えていますがね。ちゃんと調べなさいよ!」
そう言ってしまってすぐ、金吾は猛省した。
今から興奮してどうするのか。これから、もっと驚くべきことが明らかになっていくだろうに、この醜態はなにごとか。金吾は自らを叱った。そのあまりに、あろうことか、袋田に謝りそうにさえなった。
袋田はかすかに不快そうな表情を浮かべた。
「これでも昨晩からちゃんと調べているんですよ。今もあなたを相手に奮闘中です。私らをあまり馬鹿にせんように。それから、そんなに興奮せんでくださいよ。まあ、ちょっと別の話でもしますかね」
袋田は足を組んでふんぞり返り、眼をつぶった。無言で一分ほど時間が経った。また眠ったのかとも思われた。しかし、その一分は袋田が実際眠ったにしろ眠らなかったにしろ、金吾の興奮をおさめるために割いた時間だったと金吾は気づき、施しを受けたような気がして、愉快ではなかった。
「さてところで、ソシュールというかたは、有名ではありますね。あのぅ、岡田先生はどこら辺を批判なさったんでしょうか?」
眼を開いた袋田は、口調を全く変えて、にこやかに切り出した。金吾は早く落ち着かねばとあせる。よく知っていることを語ることで落ち着きを得られるように思った。
「彼がはじめから問題にしないと宣言した、擬声語、擬態語、象形文字等を問題にしないわけにはいかないこと、そしてそれらを考えに入れると、彼の議論全体が崩れる、と主張しました。
さらに、彼が唱える、言語を創り操る主体としての意識の根拠が曖昧だと論じました。言語が根拠を持たない以上、その創造者も根拠を持たない、という彼の主張はそれなりに一貫しているように見えます。その意識は無規定で、いわば括弧に括られていますが、実は近代的理性がその正体だと私は気づきました。カオスに対して意識が網をかけるという構図そのものが典型的な近代主義です。そんなものが言語の発祥にかかわっているはずがありません。時間を遡って近代を擁護したことになります。私はついこの間まで騙されていました」