涼子あるいは……
金吾は、個人的に、校長と特別親しいわけではなかったし、そうなりたくもなかった。校長の策士めいた陰険さがどうにも鼻につくからだった。校長は金吾を手なづけようと謀っていた。金吾を息子扱いすることがある。金吾の死んだ父親を見知っていた。近頃の金吾は校長から逃げまわっていた。嫌悪感がますます募ってきた校長の口を通して、父親のことを聞きたくなかった。
校長の用意周到さ、根回しの徹底性、人心操作の巧みさ、それらを支える理念の愚かしいほどの頑強さ等は、金吾をスカウトするために彼が大学の寮にやってきた時から、とっくに了解していた。だから、目の前の彼の狼狽振りは、はなはだ彼らしくなかった。不可思議で、見苦しくて、滑稽だった。興味深い見ものとなった。金吾のほうこそが意表をつかれた感じだった。その感じには痛快感が伴っていた。日頃堂々たる威厳を誇っていた父親が泥道でぶざまに転んだのを目撃した息子が感じるように。
校長は、足を軽く引きずりながらゆっくりと演台に近づいていく。少年時代に、サッカーをやっていて、思い切り地面を蹴ってしまい、そのときの複雑骨折の後遺症で妙な歩き方をする。金吾が直接聞いた話だ。
校長の眼はますます充血してきたが頬は茶色っぽくなってきた。わずかに頭が左右に揺らいでいる。演台に両手をつき、息を整えようとした。まるで走り終えたばかりのランナーだ。頭が両肩の間に落ちてぶら下がった。辛そうだ。ズボンのポケットからハンカチを出し、体から大きく離して演台の上に置いた。眼鏡をはずしてハンカチの上に置くと丁寧にくるんだ。それからゆっくりと顔を上げて右手の指で両眼を抑えた。泣きまねをしているのかもしれなかった。
金吾は眼鏡をはずした校長を、斜め横からだがはじめて見た。その素顔は別人を見るように印象が異なる。場内にもかすかなどよめきがおこった。
校長は、それに反応しない。あるいは反応できない。何も言わない。あるいは言えない。
その立ち往生が、見る者たちを誤解させた。会場のあちこちから啜り泣きが聞こえてきた。たちまちそれは伝染し充満した。尊師を仰ぎ見て、感極まって号泣する門徒のようだ。