涼子あるいは……
「ちょっと、止めてよー さっきの私の発言に対する仕返しだなぁ。背中を蟻がかけめぐってるぅー 私もそこらをひと巡り駆けってくるわ」
本当に涼子はひとめぐりして帰ってきた。
実はおしっこをしてきたのを、金吾はわかっている。涼子は、かぶっていたヘルメットを右手に持ち、左手には山つつじをひと枝持っている。金吾は一叢のつつじを鼻先に眺めながらしゃがみこんでいる涼子を想像する。濃いピンク色の花弁はすでにやや萎縮気味で、折り取られなくても早晩落ちるはずのものだった。しかし、うす黄緑色の葉は水平に張り切っていて、花の不甲斐なさに腹を立てているかのようだった。
「堤に一株だけ生えてたの」
そう言うと、涼子は今来たほうを振り向いた。
からだの正面を川面に向け、その川に飛び込むふうに上半身を突き出し両手を後ろに引くと、川の蛇行で隠れている上流のある一点を見つめた。
一陣の風が、水面を渡り、土手をかけ登ってきた。草がひれ伏した。涼子の着ている白いポロシャツがそそり立つ胸に張り付いた。胸が風を切る。陽光を燦然と浴びた涼子の迫力ある姿に金吾は圧倒される。
古代のガレー船の船首にそびえ、地中海を渡る風を胸で切って進むサモトラケのニケを髣髴させた。その像は、三百以上の大理石の破片から復元されてルーブルの大階段の向こうに屹立している。近づいて見たらたくさんの亀裂が走っているはずだ。
金吾はふと涼子の美しい全身に亀裂が入り粉々になって崩れ落ちる幻影を見た。
「洪水で押し流されてきたのが、何かに引っかかって根付いたのかしら。周りが緑一色なんで眼立ってたわ。わたし、眼立つやつにはつい手を出したくなるの。かわいそうに、これからも不心得者たちに枝を折られていくんでしょうね」
涼子は、金吾の右太腿の傍らに、つつじの枝を突き刺しながら、思わせぶりに言った。金吾は腿を刺されたような気がした。刺した勢いで、つつじの花が一輪丸ごと地面に落ちた。枝を挟んで、涼子も腰を下ろした。かすかに汗の匂いがした。
「私が浮気したらどうする?」
金吾は、この凡庸な発言に驚いた。