涼子あるいは……
夏の海が遠のいていく。相対距離の増大が錯覚を生み、いまや金吾は上昇気流によって海面はるか上空へと煽られて、翻弄され慌てふためく。
ワンピースが行ってしまう。声が出ない。待ってくれと言いたいのに声が出ない。なんとも、もどかしい。ふがいない。激しく感情が高揚する。この感情の正体がなんであるのかわからないままに、興奮はいや増しに増していく。
声の出なさが深刻すぎるし、感情の高揚にまったく歯止めがきいていないので、おかしいなと思う、状況の現実性を疑い始める。
夢を見ているのだな、と夢の中で気づく。眠りから覚めかけていることにも気づく。
ワンピースは消え去った。だが、名状し難い強い感情の高揚は消えない。
映像のない夢の中で、遠くからピアノが聴こえてきた。暗闇の中で、ではない。暗闇すら存在しない。音だけの夢になった。
サティのジムノペディだ。
なんだ、さっさと出ろよ。いや、覚醒するまで、もうすこし聴いていたい。夢見心地で聴く音楽が興奮を癒してくれそうだ。着メロの向こうからコオロギの鳴き声が聞こえてきた。窓が開けっ放しだったのを思い出す。
さらに眼が覚めてきた。ライトはつけたままなので、瞼の裏が赤い。
今頃かけてくるのは涼子しかいなかった。水色のワンピースの女だ。時刻にはお構いなしに、今から行くからね、などと言ってくる。
いい気なものだ。昨日の夕方は奇妙な振る舞いをして人をあんなに心配させ、夜はこちらの携帯を三度も無視してさらに不安にさせたくせに。だからあんな夢を見た。
金吾は、あんちくしょうめ、と恨めしく思いながらも深い安堵感に包まれた。とにかく涼子と話ができるのはありがたかった。眼をつぶったまま、サイドテーブルに手を伸ばし、蓋を開けて携帯を耳につけた。ドスのきいた声を発すべく、小さな咳をして声帯を調整する。
まずは涼子にしゃべらせておこう。そこで弁明をすればよし、しなければこちらから、昨日のことを説明してもらおうか、と要求しよう。そして簡潔に説明を終わらせて、なんだそうだったのか、すぐ来いよとでも言ってやろう。
ところが、聞こえてきたのは、荒い息遣いで途切れ途切れの、押し殺した男の声だった。誰であるかはすぐにわかった。あの人が今頃?、と不審に思った。相手が涼子でない以上、どんな用件であれしゃべりたくなかった。