涼子あるいは……
多摩川から漂ってくる微風が、複雑な、夏と秋の植物の混じり合った香りを運んでくる。何種類混ざっているかわからないハーブ茶を楽しみながら味わうように、すぐそばなのに見えない川辺の、季節の変わり目の賑わいぶりを想像した。金吾は、あの五月のサイクリング以後、窓から見えるあの土手を越えたことがない。
金吾は、ここ四ヶ月の自分の生活が、川や草地や、魚や鳥やへびやアリたちとは、いかにかけ離れていたか、と気づく。そのものたちは、ついそこに、ある、いる。多摩川は、広い河原を両腕に抱えるようにして長々と寝そべっているだろう。平井川は川辺の真菰と川底の水草を揺らめかせながら悠然と流れているだろう。草むらには百種以上の虫がうごめいているだろう。なあに、簡単な話だ。それを確かめに、今見に行ってみようか。想像通りの川があるだろう。土手の上から見下ろしている風景の中に、ここで想像している以上のものやことが現れるはずはもうないから、金吾は安心して見物人になれるだろう。どんな風景を見ても金吾は心穏やかだろう。人間を除いた自然に限っては、自分を震撼させるようなことは起こらないだろう。そもそも一生分すでに震え尽くしてしまっている。みずからの主義をとことんくつがえされたひと月だったが、それで鍛えられた自分は、癒しがたい後遺症が残りはするものの、やっぱりもとに戻っていくだろう。本来の自分が強化され、生理と論理と倫理が互いの言い換えであるようなかつての状態へ。
それは子供のころからもっている自然との共通部分だった。子供のときの自分のように今の子供たちもそれを持っているはずだと期待して、この職業についたのではなかっただろうか? 現場としか言えなかった場はそれだったのではないだろうか? その共通部分を根拠に、自然との契約が可能かもしれない。川と森を背景にした風景画の中の自分を想像してみた。急に歳をとったような自分だ。その後、画の黄ばみが進むのにつれて、穏やかに衰弱していく自分。そういうふうでありたい。もうこれからは何も起こらないでもらいたい。そうとでも思わなくちゃ……



