涼子あるいは……
その欲求は、どうしても残っている、ありえない、信じられない、という気持ちを払拭するためのものであり、自分がそこに行けば自分だけにわかる何らかの手がかりを見出せるかもしれないという期待でもあったが、不思議なことに責任感から発してもいた。責任感は、自分と涼子の一体感が極まって醸し出した哀れな錯乱だった。金吾は、自分が殺されたかのような心理状態にあった。自分は、殺された涼子だと感じざるをえないまでになっていた。涼子の、つまりは、自分の、死亡現場を見ないでおられようか、自らの最終場面を他人の手に任せたままでおられようか、といった,奇妙で悲しい錯覚がかきたてられた。
滑稽至極にも、殺された涼子の姿勢を想像して両手を斜め上に伸ばしたり、肩を抱えて縮かんだりした。こんな具合だったんだろうか。それとも……
鼻水が流れ落ちたような感じがして、あわてて鼻の下を手の甲でぬぐうと、血がついていた。ティッシュで拭くとびしょぬれになった。そのティッシュをゴミ箱に投げ入れ、さらに、もう一枚のティッシュを右の鼻の穴に詰め込んだ。
急いでコットンパンツを穿き、開襟シャツを着た。靴を履きながら玄関の右側の壁に張り付けてある鏡を見た。見知らぬ男がそこにいた。陽に焼けた肌の裏側から緑色のアドレナリンが毛穴を破ってあふれんばかりだった。顔も腕も暗緑色に変色し、眼窩が落ちくぼんでいた。蓬髪、無精ひげ。肩で息をしていた。金吾は、お前は誰だ、とつぶやきながら、拳固で軽く鏡をついた。引き攣れるような音がかすかに聞こえた。
鏡は四隅にあるボルトで壁に留められていた。右上のボルトが壁の穴の内壁とこすれ合って音を立てたのだった。ボルトと鏡はくっついているが、穴の内径がボルトの外径よりわずかに大きいため、ネジ山が利いていない。
見習い作業員が、化粧板の欠片で試しをせずに予定の位置に穴を開けてしまい、ドリルを抜いてから径が大きすぎたのに気づき、周囲を窺いながらあわてて軸先をとりかえている様子を金吾は想像した。
金吾は靴を踏んで脱ぎ、浴室に駆け込み、シャワーを浴び、髯をそった。大急ぎでまた服を着ると、机に走り寄った。途中、床の上の何かを蹴っ飛ばした。
パソコンからCDを抜き取った。
昨日、喫茶店から帰ってくるとすぐさまアンロックを試みた。剣道場に出かけるまでの三十分間粘ってみたが上手くいかなかった。