涼子あるいは……
ああ、声がわりしていない!
その手は、背もたれを二匹の白ねずみのように追いつ追われつ右へ這い、さらにテーブルの縁へ飛び移り、その右辺に沿って忍びよってきた。
右手だけをテーブルの端に残し、右辺中央で、永遠の103センチ、鷲田友彦は立ち止まった。
赤いポロシャツを着て、茶色の半ズボンをはいている。脱げそうな大きな靴を履いている。
金吾が口を開こうとすると、友彦が首を左右に振りながら言った。
「話は後だ。約束のものは持ってきたか」
金吾は尻ポケットからCDのケースを取り出してテーブルの上に置いた。
「やはりそうか。コピーガードがかけてあるはずだから、一枚だけだろう。中身を調べる。それをパソコンに入れて開けて見せろ」
「……ガードがかかっている」
舌がもつれて上手くしゃべれない。
「だからそれはわかっている。君が承知しているキーワードのはずだ。そうでなければ君に預けるはずがない。もしかして君と涼子のパソコンだけに通用するように二重ガードがかかっているかもしれないからそのパソコンでやってみるんだ。開けられなければCDは贋物だとみなす。因みにそのパソコン自体は空だ。私が内容を吟味してからみんな消した」
金吾はパソコンの電源を入れた。動転から早く立ち直らねばならないのに、第二の苦難が迫ってきた。
おとといは夕方の三十分間、今日は呼び出しのメールを受け取ってからここに向かって出かける直前まで、涼子のかけたガードをはずそうと試みてきたがついに成功しなかった。今また試みても無駄なのは明かだった。しかし、そう白状したら話はここで打ち切りだ。もう少しで全状況がわかるというのに。
金吾は、だめでもともとと観念してCDを差し込んだ。手が震えてなかなかうまく入らなかった。
リナックスが立ち上がる。
(今日のことをよく思い出せば、ガードをはずせるかもしれないわよ)
急げ。思い出せ。喫茶店穂高の店内を出来る限り詳しく思い描け。まず涼子は右を見た。そこにはマチスの貼り絵のコピーがかけてあった。マチスの生年月日、没年月日、名前のつづり、すでにみんなやってみた。壁にはそのほかになにがあったか。ない。何もない。幾何学模様の壁布だけだ。次に涼子は左を見た。そこになにがあったか。ステンドグラスをはめた窓だ。何の記号もない。どうしよう。右を見て左を見て右を見て左を見て……



