涼子あるいは……
涼子は、あっけにとられている金吾を無視して、ビールの小瓶をラッパ飲みにしてから、パソコンをバッグに仕舞い、ゆらりとたちあがり、「おい、ちょっと待てよ」とやっと出た金吾のしわがれ声を無視し、請求書をひったくって、あとをも見ずに立ち去った。
永遠に。
金吾はベッドの縁からずり落ちた。フローリングの上を転げまわった。壁にぶち当たった。悔恨に身を炒られた。弁明も懺悔も祈りも何の足しにもならない。絶対に取り返しのつかない大失態をやらかしてしまった。自分に向かって語彙を総ざらえして恨みの言葉を投げつける。馬鹿、鈍感、無知蒙昧、腰抜け、卑怯者、くそ野郎、サナバヴィッチ…… ああ、有無を言わせずに涼子をこの部屋に連れ込んで一晩中羽交い絞めにしておくべきだった。
金吾は涼子のマンションを昨晩訪ねる気持ちになぜならなかったのだろうかと今更ながら自分を問い詰める。喫茶店での涼子には、絶対に来てはいけないという拒否の意志は見てとれなかった。泣くことは拒否とは限らない。逃亡の素振りには見えたが。死への逃亡だったのか。来客だろうとなんだろうと、押しかければよかったのだ。あっ、すいません、五小の岡田と申します、すぐ済みます、などといって涼子を玄関口に呼び出して、なんだよ、さっきの態度は、どうしたんだよ、と小声で追及することはできたはずだった。さっさと客を追い返させて、金吾が上がりこむなり、涼子を外へ連れ出すなりも出来たはずだった。あんなにおかしくなっていた涼子を他人に会わせてはならなかったのだ。
そもそも、なんで喫茶店の場面で、涼子を行かせてしまったのか。
涼子を追わせなかったものはなんだったのだろうか。
涼子の眼を通して金吾をひるませる、例のあるものだったのだろう、とすぐに気づいた。あるものなどとあいまいな言い方をせざるを得ないのを不甲斐なく思う。しかし、何らかの実体が存在するのを知ってしまっていてもそれにかぶせる言葉が見つからないことはある。言葉がなければ実体などないという立場に金吾はくみしない。金吾の見つけた実体に符丁としてあるものと振っておくしかしょうがない。