涼子あるいは……
「涼子さんって、子供のころから苦労が絶えなかったのに、よくまあ、あんなに快活なお嬢さんに育ったわよね! 私、眼の前に奇跡を見るようでした。苦労があの方を鍛え上げたんでしょうが、本来芯がよっぽど強かったんでしょうね。苦労をむしゃむしゃ食べて栄養にしてしまったんでしょうね。
学生時代はずっと松本で伯母様と二人暮しの生活だったそうね。信州大の保健学科を出ると、松本の保健所に就職されたんだけど、一年でそこを辞めて、五小に来られたんだったわ。その理由は聞いてらっしゃるわよね?」
女史は小首を傾げて金吾を見た。
「いや、よく知りません。動物を扱うのに嫌気がさした、としか聞いていません」
「あら、そうだったの。じゃあ、お話しようかしら。
涼子さんの配属されたのは家畜衛生課というところなの。市内の牧場や養鶏場を廻って畜舎の衛生状態や家畜の健康状態を検査する仕事なの。ところがね、もうひとつ大きな仕事があったの。ご存知?」
「聞いていません。肩までとどくゴム手袋をはめて、ホルスタインの子宮を探ったという話は聞きましたが」
女史は、かすかに眉を顰めた。腫れて膨れた顔の奥底に理由のわからない悲しみが走った。
「その仕事というのは、家禽の管理なの。簡単に言うと、野犬を捕獲して、一定期間、犬舎に保管しておいて、飼い主が出てこないとガスを使って薬殺するの。
ガスを吹きかけながら片方の壁を固定した壁に近づけていって部屋の容積を減らすんですって。ガス濃度を高く保つためと、死骸の始末をしやすくするためですって。
犬たちは、最初は、迫ってくる壁を引っかいたり、それに体当たりして暴れるんだけど、いよいよとなると、前足をそろえてお座りして、窓ガラス越しに涼子さんを見つめるそうよ。みんなそろって、ビクターの犬みたいに、小首をかしげて。なぜ、って言ってるように。そのまま、眼を思い切り見開いて、驚愕の表情を浮かべて痙攣を始める……
涼子さんはそれを見るのが嫌でいやで、やがて犬達を自分の車に乗せてこっそり山に放しに行くようになったの。
ところが、放してやってもね、同じ犬が二度も三度も捕まっちゃうんですって。ああ、この子達は、死から逃げられないのか、私は殺す役目から逃げられないのか、と思いながら泣きの涙で薬殺したんだって。



