涼子あるいは……
亭主がカウンターの中に入り、「千六百両」とつぶやきながら、駅で配られるティシュを突き出した。それでやっと気がついたのだが、また鼻血が出ていた。殴られたのだから当然である。金吾はため息を大きくついて千円札を二枚カウンターにおいた。鼻をぬぐいながら、今まで自分が坐っていた席を見ると、厚いカウンターに紅葉のように鼻血が散っていた。床にもいささか垂れている。
山崎を見た。山崎は前に伸ばした両腕の間に顔を突っ伏して寝息をたてていた。
すぐさま店を出た。
「またどうぞ」
亭主のつぶやくような声が閉めたドアの向こうからかすかに聞こえた。
階段の降り口の第一段目に右足を下ろしたときに、亭主の怒鳴り声が背中のほうから聞こえてきた。
「ほら、起きろ、泰男。お前が涼子さんを殺したのか? 父ちゃんにだけは正直に言いなさい!」
八月六日金曜日午後七時三十分
金吾は自転車から降りた。老人福祉センター?応援家族?の駐車場には車が一台も停まっていない。自転車を隅において、従業員専用のドアから入る。涼子の前に五小の養護教諭だった宍倉多恵は、定年前に希望退職して、ここの養護士として働いている。住み込みだ。彼女のことは涼子から聞いていたし、もっと早い時期に会おうと思えば会えたのだったが、なんとなく遠慮してしまって、今日が初見参だ。
用務員室で部屋のありかを聞く。用務員は、うかがっております、と答えた。
五階の西北側の隅の部屋をノックする。
「開いてますよお」と甲高い声が聞こえた。
奥のほうでばたんと音がした。冷蔵庫の扉が閉まる音だ。
「はいはい、お待ちしていました、どうぞ、どうぞ。といっても、ちょいと行けばお寺の墓地で、そのまた向こうは多摩川ですからね、三四歩でお立ち止まり下さいな」
十六世紀のスペインの帆船が、帆を膨らませて入港するように、ドアを開けて立った金吾に向かって、色白の豊満なおばさんが、両手を拡げて近寄ってきた。ハワイ旅行の土産のような、原色で密林を描いた模様のあっぱっぱーを着ていた。髪は明るい茶に染めてパーマをかけている。化粧が濃く、香水のにおいも強い。金吾は抱きつかれるかと思って一歩退いた。



