帰郷
8 帰郷
三人はサービスエリアを後にして、我が家に向けて再び主発した。道はまだ半分も来ていないが家路が遠いとは誰も思っていない、むしろもう少し続いて欲しい気さえした。
「悠里ちゃん、眠くない?」
「うん、まだ大丈夫」悠里は眼鏡を外して目をこする。寝るのが勿体ないのか起きることに必死だった。横で一生懸命起きようとしている妹の仕草が姉には面白い。
「……あれ?さっきまで髪の毛束ねてなかった?」
「あ……」悠里は自分の頭に手を当てたり、手首を確認した。確かにサービスエリアでは頭にシュシュを巻いていた「ない……。あれ、どこ置いてきたのやろ。どうしよう」
悠里は不安な顔になった。高価な物ではないが悠里にとっては大切な物だ。
「ったくぅ。ちゃんと回収してきたよ」陽人は左腕に巻いた妹の忘れ物を見せた。自分が買ってやったものだからちゃんと覚えている。
「ありがとう、お兄ちゃん」
悠里は慣れた手つきで髪を束ねた。
「相変わらずやねぇ、悠里は……」朱音は半分呆れ顔だ「そういや今日の帰り際だって……、思い出した。こらっ、悠里っ」
朱音は二人の自然なやり取りを見て数時間前の記憶が甦った。わざとらしいフリで篤信と二人になって恥ずかしくなった事を思い出したからだ。思えばあの時の悠里の表情とさっきのそれとは全然違う。
「ごめんなさーい、バレちゃった?」
助手席に座る悠里は両手を頭に押さえた。反省の色は無く笑っている。
「許してあげなよ。姉ちゃんのこと思ってのことなんやから」
後部座席から傍観者のつもりで口を挟んだ弟の陽人だったが、その言い種もわざとらしい。
「陽人、アンタが仕組んだんでしょ!」
「いやぁ、それは……」矛先が自分の方に向き、勢いを失ってたじろいだ。
「そうよ、あの時お兄ちゃんが悠里に耳打ちしてね……」
「やっぱり……、で何言われたん?」
「今すぐ何か忘れ物しろ、悠里がすると怪しまれへんから、って……」
「やっぱりね。道理で仕組まれた感があった訳だ……」
姉妹の視線が陽人を捉え、陽人の動きを封じる。車内の雰囲気が一瞬凍りつく、これは怒られるぞ――。陽人の背筋が伸びた。
「――アリガトね。二人とも」
朱音は前を向いたまま、弟妹にお礼を言った。急な調子の変化に二人は言葉を奪われて一瞬車内が沈黙した。
「嬉しかったよ。お姉ちゃんのためにお膳立てしてくれて――」姉の横顔が微笑んでいる。
「私もあんた達がいたから正直に、なれた。というより、あの時後押ししてくれなかったら今頃絶対に後悔してる」
帰り際に朱音が篤信と話した内容については弟妹が聞くことはなかった。姉の顔を見るだけですべてが分かったからだ。
「今まで私は二人を支えて行かなきゃと思ってたけど、本当は支えられてたんだね……」
朱音は前を向いたままだった。しんみりした事を普段言わない姉なので、その顔は少し照れていた。
「やめてよ、お姉らしくないよ」
「お姉ちゃんには幸せになって欲しい。悠里たちのためにいつも苦労してるもん」
「悠里『たち』って……」朱音は陽人を諭しながら悠里に話を続けるよう促す。
「篤信兄ちゃんと一緒になって欲しいな」
「なるよ、いずれ。お姉にはその権利があるよ」
「もぉ、二人とも!いじらんとって」
朱音の白い顔がみるみる紅くなった。しっかり者の朱音が慌てている、車が思わず急加速した。滅多に見られない姉の表情に二人はケタケタ笑いだした。
一呼吸置いて朱音が一度二人の顔を見た。
「篤信君はね、『きょうだい』が羨ましいんだって、一人っ子やから。嫌な時もあるかも知れないけど、それ以上に良いことがあるでしょ?って」
「確かにそうかもね。最近になってそう思うようになってきた」
「私は嫌な時なんてなかったよ」悠里は外を向いて同じ周期で通過するトンネルの光を眺めた。
車内が一瞬静まり返った。三人はそれぞれ今までの事を振り返っていた。
「篤信兄ちゃんにもきょうだいがいるよね?」悠里は陽人の肩を叩いた。陽人には妹が何を言いたいのかすぐに分かると表情が変わった。
「本当だ。先の事だけどね」
この数日を振り返って、篤信が近くにいる事がとても自然に思えた。朱音だけでなく、陽人と悠里も二人のこれからを確信した。そして、意地悪にも陽人と悠里はもう一度姉をからかった。
「またぁ、今度は怒るよ!」
車がまた急加速した。日頃一家の纏め役という重責を負う姉を楽しませたい気持ちは二人とも同じだった。言葉は怒っているが本当は喜んでいる。篤信と朱音はもう大丈夫だと迷わなくなった瞬間だった――。
「あのさ……、お姉」陽人の口調が優しくなったのを感じて、朱音は一瞬後ろを振り返る「一人で抱え込まないでよ」
「何の事?」
「家の事に決まっとうやん。僕らも子供じゃないんだ……」
「お姉ちゃんだけに負担かけたくないよ」
今も以前も家の中で一人で奮闘している姿を見て、自分たちが何も出来なかった事を後悔し、今は自分達の心配は要らないよと言いたかった。
「アンタたち……」
両親は離婚の責任を重く受け止める余り今更子供たちと上手く接することができないことを既に成人である長姉だけには伝えた。その事実をまだ多感な年頃の弟たちが聞いたらどう受け止めるだろうと朱音は悩んでいたが、二人ともそれとなく悟っているようだ。今までの心配が取り越し苦労であることがわかると、朱音の肩が軽くなっていくのが自分でも感じた。
「お母さんはまだ時間がかかると思う。離婚してまだ自信がないみたい――、そのうち吹っ切れると思う。だからもうちょっと待ってあげようよ」
「お姉が篤兄待ってるのと較べたら大したことないよ、な、悠里?」陽人は頷きながら悠里にも同意するよう目で言った。
「それを言うならお父さんもだ。悠里、アメリカに電話してみようかな」
「悠里も進歩したわねぇ」英語が苦手だという悠里が自ら言い出すのに朱音は感心した「私も仕事頑張ろっと」
「違うよ、頑張らないんだって」
「あ、そうだったわね。アンタは?」
「そのうち本気出すよ、もちろん勉強もね。何とかなるよ」
身を乗り出していた陽人は背もたれにもたれてそう言い放った。やる気の無さそうな事を言っている時が一番調子がいい。朱音の目には助手席にいる悠里も含め、弟と妹はこの数日で急に成長した、本当に近い存在になったように見えた。