帰郷
「親が離婚した経緯なんだけど――」
朱音は性格が顔に出るのはいつもの事で、言いにくい事を言おうとしているのが篤信には分かる。自分に何が出来るかは分からないが、朱音の話を聞いてあげる事で朱音が安心するのは容易に理解できる。昨夜朱音が自分にしてくれた事だ。
「篤兄ちゃんは私の両親知っとう?」
「そりゃね、神戸ではお母さんとは会えずじまいやったけど……」
日米間で貿易関係の会社を経営している日系二世で日本語がちょっと苦手な父と、朱音が4歳の時にアメリカに引っ越すまでCAをしていた母――。そして彼女は篤信の伯父の妻の妹に当たる。二人とも篤信には優しく接してくれた、どちらも教養のある人だ。篤信が記憶している朱音の両親はこれぐらいだ。
「お父さんはアメリカにいた時の方が元気やったよね」
「うん――」
篤信は朱音がアメリカにいた六年間も何度か朱音を訪ねた事があり、その時の父は生き生きしてて、話す言葉も日本語じゃなかった気がする。
「それも原因の一つなんだけど――」朱音は話を続ける。
「そもそもは親同士が合わないからこうなったんやけど、お父さんは強烈なホームシックになるし……、お母さんは旅行会社始めたはいいけど毎日忙しいし……」
「それで四年が過ぎたの?」
朱音は小さく頷いたあと、大きく息を呑んだ。
「いいよ、続けて」
篤信は真っ直ぐ朱音の目を見た。
「実はねお父さん、事業がだんだんうまく行かなくなって、そこから結局夫婦仲も――」
「そうなんだ」
「だからね、毎日二人とも後半は見てて可哀想なくらいだった。お父さんもお母さんも」
朱音の両親は身勝手に離婚をしたとは言いつつも、両親の弁護を始める。母は当初ライフワークのつもりで始めたのが、そうも言ってられなくなったのが本当のところで、当初は夫婦間のストレスから子供たちを意図的にほったらかしたかもしれないが、今はそういう訳でもないと言う。
「勝手なんよ、勝手なんやけど……お母さん、今さら母親面出来ないって、陽人たちとはなかなか距離を縮めるのが難しいみたい」
同じ部屋で生活している母を娘はこう見ていた。
「お父さんは、連絡取ってるの?」
「連絡?お父さんの方からは無い」
朱音はもう一口コーヒーを飲んだ。
「たまにこっちから連絡してる。電話では機嫌良く話してくれるよ。お父さんも本当は子供とは話したいみたいだけど、悠里は英語で電話するのは苦手やし、おじいちゃん亡くなってからは日本が遠くなったみたい……」
朱音の父も親として、子供のことは気掛かりな様子だ。しかし、自分の立場や現状から自分から近付くのを遠慮しているみたいと朱音は説明する。
「結局どっちも同じなんだね……」
篤信は座り方を変えて、両肘を座卓につけた。
「陽人君たちは知ってるの?」
朱音は首をゆっくりと横に振った。
「弟たちにはハッキリ教えていない。あの子たちはまだ学生やし、大人になってから知ってもいいと思うから……」
「じゃあ音々ちゃんは今までずっと一人で抱えてきたの?」
「うん――」朱音はこくりと頷いた。
長姉であるがために朱音は家庭の状況が悪化するのを直接見てきた。両親の苦労を目の当たりにし、そしてそれがどうにもならないことが徐々に分かってくると、自分の将来を修正せざるを得なくなった。本当は物語や詩などの翻訳家になりたくて、大学でもっと勉強したかったのだが、朱音は弟たちのために大学の進学を諦めた。これには進路指導の先生を驚ろかせたが、朱音は事情を説明し「いつの日か編入学すればいい」ということで押し切り、短大へ進学することを決めた。
「勘違いしないでよ、私は後悔してないから。それに弟たちのために一歩引いてやったとも思わない。けど陽人も進学する事にはあまりこだわってないみたいなんよね……」
篤信は黙って話を聞いており、時折ゆっくり頷いて朱音の顔を見ている。
「篤兄ちゃんはどう思う?私間違っとう?」
「間違ってるもんか」篤信は自分が出来る精一杯の優しい笑顔を見せた。
「陽人君たちは音々ちゃんがそこまで考えているのを知らないだけだよ。もし二人が両親を責めるようであれば教えてあげてもいいんじゃないかな」
篤信は本当は知っている。朱音の弟たちは両親の不仲の原因や離婚は自分達にはどうでもいいことと、両親を責めたりしないこと、そして家がバラバラになっていたあの時もずっと一人で調整を取って一人奮闘し続けて来た姉を慕っていることを。
朱音は大きく息を吐くと、ひきつった顔が次第に緩やかな笑顔に変わっていった。
「スッキリした。ずっと聞きたかってん」
朱音の顔には安堵と安心が見える。篤信はその顔を確認して、朱音の頭を一回撫でた。撫でることはあっても撫でられることは無かった長姉の朱音は小さな子供のような扱いをされて少し恥ずかしくなった。
「ずっと我慢してたんだね――」朱音が頷くと篤信は立ち上がった。
「適当にお昼用意するから、もうちょっとゆっくりしてなよ」
篤信は腰を揚げて台所のある隣の部屋に移り、コンロに火を点けた。
「いいよ、今日はお客様なんだから」立ち上がろうとした朱音を制して、篤信は機嫌よく鼻歌なんぞを歌い出した。自分は朱音にとって大切な人であると思ったからだ。
「ははっ、ははは――」
朱音は突然笑い出した。彼女に背中を向けていた篤信は驚いて後ろを振り返る。朱音の顔にはどこか解放感があるのがわかる。
「どうしたの?」
「あのね、東京まで来ちゃったよ、勢いで。馬鹿だねアタシ。何しとんのやろね」
前回東京に来たときとは明らかに違う顔をしてる。今の朱音は化粧もしていないし、髪もバサバサだ。あまり使ってなさそうな眼鏡がちょっとミスマッチで、おまけに寝起きの顔は戻っていない。それでも篤信は嬉しかった、おそらく他人には見せることのない、篤信だけのそれだ。でも篤信にとって今の朱音は一番いい顔に見える。
「本当だ。音々ちゃんは馬鹿だ」
篤信も笑い出した。ここ最近で一番笑った。
「陽人がね、言ってたのよ『感情に従って行え』……」
「『でなきゃ出来ないって事も分からない』でしょ?」
二人はギミックの歌詞を引用した。
「陽人もね、知らんうちに大人になってるのよ、アイツ」
朱音は今ここにいない弟のことを話し始めた。
「篤兄ちゃんが悠里に教えられたように、私は弟に教えられた。東京まで送らなかったら絶対後悔した。今出来る私の一番したかった事やもん!」
「だったら僕も一緒かもね」
「そうだね。篤兄ちゃんも勢いで東京に戻ってきたよね」
「その通りだ。だから僕も馬鹿だな」
「ホントだ。でもいいじゃない」
「ああ」
小さな部屋から再び二人の笑い声が聞こえた――。