帰郷
3 写真
「いやー、疲れたぁ。ちょっと寝かせてね。」
朱音は部屋に入るなり、奥の部屋にあるベッドに転がったかと思うといつの間にか寝息が聞こえてきた。
「あらら、運転大変だったんだね……」
自分のベッドをいきなり占領された篤信は朱音の寝顔を見て顔を少しだけほころばせ、朝の陽光が差し込む部屋にカーテンを下ろした。
東京の篤信の下宿、東京と言ってもこの一帯は古い町並みで、古い下宿が並んでいる。篤信の下宿は彼らが生まれるもっと前からあったような昭和の臭いがする。部屋は手前の3畳間と奥の四畳半間の2部屋、医学部の学生らしく難解な医学書が本棚に並んでいるだけでなく、神戸にいた頃の写真や、剣道の防具一式、立派な一眼レフなど、若い学生の部屋という感じが出ている。大学まで自転車で五分、篤信曰く過去にも有名な先輩が利用していた下宿だとか。
「あ、ごめんごめん。二人とも入ってよ、狭いところだけど」篤信は玄関前で姉の早業に呆気を取られた調子で立ったままの弟妹に部屋に入るよう勧めた。
「二人とも疲れたでしょ?」
篤信が二人に座るように勧めるが、疲れた様子はなく、篤信の部屋に置いてあるいろんなものに興味津々だ。
「うわぁ、難しそうな本がいっぱいだぁ」本棚を見る悠里は目の前にある分厚い本を一冊抜いて一目した。
「わっ、何これ?」英語で書かれた医学書にいきなり打ちのめされる。
「お兄ちゃん、これ何て書いとう?」
「え?ちょっと貸してみ」陽人は悠里から本を受け取りザラ読みしてみる、暫しの沈黙、眼鏡をかけ直したり落ち着きがない。
「あのね、これはぁ」助けを求めるように篤信の顔を見る。「確かに英語で書いとうけど、何かの治療法みたいなことが書いてあるね、――ただ内容が難し過ぎて理解ができんわ」陽人は読んでいた本を閉じ、元の本棚に戻した。
「すごいんだね篤信兄ちゃんは。英語の本も読めるんだ」
「悠里ちゃんも勉強したら読めるようになるよ」
「ちょっと、篤兄」
陽人は篤信が話そうとするのを止めようとした。というのも悠里が英語についてコンプレックスを持っているのを知っているからだ。しかし、悠里には表情の変化がない。
「朱音ちゃんも陽人君も初めから言葉がわかってた訳じゃないんだ」
篤信はそういいながら一冊の本を悠里に手渡しする。基礎英語の参考書だったが、その使い込み具合が尋常じゃないほどボロボロだった。
「僕は英語を一生懸命に勉強したよ。陽人君の場合は逆に日本語を学校で一生懸命勉強した筈だ」
悠里は渡された本をザッと見た。さっきの医学書以上に細かいメモが記されてある。
「この字は……?」
「気付いたかい?朱音ちゃんの字なんだ。悠里ちゃんくらいの頃の字だから漢字がちょっと変でしょ、ほら」
篤信が説明すると、悠里の頭の上から本を覗く陽人が、
「この頃お姉は漢字で難儀してたって言ってたっけ。『書く(write)』じゃなくて『描く(draw)』って英語で言ってたよ」
「僕はね、朱音ちゃんから英語を学んだんだ。逆に朱音ちゃんには日本語を教えた」
悠里は普段家で聞く英語と日本語の混ぜこぜは、姉兄が言葉を勉強していく過程でできたことを初めて知った。日頃姉が言っている
「外国育ちだから、クォーターだから言葉がわかるんじゃない、努力したから分かるのよ」
の意味がやっと理解できた気がする。悠里の顔がパッと明るくなった。姉も兄も自然そうに見えてもしっかり努力してるんだ―。悠里は今までズルいと言ってコンプレックスになっていたのが少し恥ずかしく思った。
「私も頑張ろうかな」
「僕は英語を勉強したのは実質中学入ってからだ。悠里ちゃんはまだ6年生だし、お兄ちゃんもいるんだから僕よりもできる筈だよ」
悠里は眼鏡がずれる程大きく頷いた。
「お兄ちゃん?」
後ろにいる陽人を振り返って見ると、陽人は照れているのか、背を向けて他に面白い物は無いかと探していた。
「こっちもスゴいぞ」
そう言って陽人は本棚から分厚いアルバムを引き出した。