帰郷
陽人は出て行く二人の後ろに立っていた篤信を招き入れた。
「ホントに来るとは思ってなかった。来てくれて嬉しいよ」
陽人はコンタクトを外していつもの似合わない眼鏡に掛け替えて、陽人は篤信に席を勧めた。
「母さんが薦めるからさ『絶対に行ってあげなさい』って、」
「あんだけ言ったのに、勧める訳じゃないよって……」と陽人は心の中でつぶやいた。ある意味では予想通りの展開で篤信はわざわざやって来てくれた。でないと本当にママ先生が来るところだった。
「お姉が篤兄元気無いって言うから、何かきっかけでもと思って、どうだった?」
実際に聞いた事とは少し違うが、陽人は篤信にかまを掛けてみた。
「朱音ちゃんはそんなこと言ってた?」篤信の表情でそれが図星と分かる。
「言ってないよ」陽人は小さく笑い出した。
「騙された。上手だな、陽人君」
篤信は陽人の笑顔を見て、自分が手玉に取られている事が分かった。
「ライヴ、良かったよ。確かにあまり聞かないジャンルだけど、気持ちは伝わった。何だろう、元気になった」
篤信が知っている陽人は、女子の中で一人ピアノに打ち込んでいた小学生の頃の「真面目なメガネ君」のイメージがあって、さらに姉と妹に挟まれた、実際の見た目通り華奢で風采の上がらない一人息子の感じがしていたが、今日の陽人を見てそのイメージは大きく変わった。
「陽人君は何でも出来るんだ。ドラムもギターも、それとピアノもだね」
「ママ先生には感謝してるよ。基本はピアノやってたからだからね」
陽人は篤信の母に敬意を示した。いい笑顔だ。
「解散するの?初めて聞いたのにもう最後ってのは残念だな」
「郁さんは受験やし、宮浦もソロでするって言うし、本意じゃないけどこれ以上は引っ張れへんよ」
陽人はさらりと言い放った。その境地に至るのに自ら葛藤したが、そんなものは乗り越えたと言わんばかりの表情を篤信に向けた。
「何とかなるよ。喧嘩別れした訳でないし、今は家でも孤独を感じることないし――」
陽人はあの辛かった時期に戻るのではないと言うつもりだった。篤信は陽人が口に出さずともその意味は分かった。
「それよりさ、篤兄」
「何だい?」
「元気なさそうだけど、どしたん?姉ちゃんと上手くいってないの?」
陽人は先日朱音がデートから帰ってきた後の様子をそれとなく話すと篤信は気まずそうな顔を見せた。
「そんな、いきなりだな。」篤信は笑っているが、その顔が赤い。この手の話に慣れていないのが分かる。
「それも否定しないけど、一人で東京にいるのが嫌なってきてさ……、授業も難しいし、毎日何やってんだろ、って」
朱音の話題を避けようとすると、篤信の口からふと本音が漏れた。
「へぇ、篤兄でも勉強が大変だっていう時があるんだ……」
篤信の表情に変化がないのを見て、あながち嘘でないようだ。受験を含め勉強では全く敵なしの篤信なのに、授業が難しいという言葉に陽人は違和感を感じた。
「一番上手くいってないのは東京での生活みたいやね?授業でもなく、お姉の事でもなく……」陽人は篤信の一番の隙を射抜いた。その反応で篤信の目が大きく開いている。
「篤兄は自分のリズムが崩れるというか、何か一つ転んだらズルズル行くタイプじゃない?」
少しの会話で性格を見抜いた陽人を感心して見つめた。自分を振り返ると確かにその通りだ。勉強にしても抜き打ちには弱いし、剣道の試合でも先に一本を取られたら大概は負けていた。
「僕もそれで諦めた事や思い通りにならなかった事はいーっぱいあるよ。その度にヘコんで、その度に荒れてたけど……、それが無意味なのが分かったから頑張らないことにした」
篤信はその言葉を聞いて目の前に座っている陽人を逆再生させた。ギミックの解散、両親の離婚、中学受験の失敗、帰国後の困難……、それに加えて断続的にあった内外での孤独。自分より外から来る強制的なリズムに合わされている。朱音の話では一時自暴自棄になって荒れた時期があったと言うが、ちょうどその時期の陽人を見ていないので俄に信じ難い。そんな過去が無かったかのように今の陽人は落ち着いており、頑張ってないようにも捉えることが出来る。
「頑張らないの?」
篤信が否定的に聞こえる言葉を繰り返すと、陽人は頷く。
「頑張ったって駄目なものは駄目。無駄なものは無駄だもん。」陽人の表情で決して投げやりな事を言ってるのではないことが分かる。
「でもさ、そんな時でも得るものがあってね、それって結構良いものだったりする。僕も受験に失敗したから今の仲間がいた訳だし、親が離婚したからお姉や悠里とも近くなった。」
陽人の言うことは確かに一理あるし理解も出来る、でも篤信は自分自身がうまく行ってない事とを繋げる何かがわからなかった。
「陽人君と僕とは何が違うんだろう?」
「僕は今までヘコむ事があった。篤兄は今まで無かった。そういうことでしょ?」
確かに自分は今まで大きく躓いた事はない。陽人は躓く事で逞しくなった。それに比べて自分は自分を律するといって、躓くことを避けてきた。その代償は、対処の方法を知ることなくここまできたということだ。篤信はそう思うと今までの五年半が否定された訳ではないのにとても空しいものに思えてきた。