帰郷
「入るよ――」
篤信はそう言って西守医院の診察室に入る。デスクでは父が午前中に診察した患者のカルテを診ていた。久し振りに見る父の背中は以前と変わった様子はない、少し白髪が増えたくらいか。
父は息子の声を聞いて作業をしていた手を止め、ゆっくりと振り返った。目の前に立っている篤信を見て表情を変える訳でもなく、ただ大人になった篤信の全身を下から上と一度見流した。
「また背が伸びたか」父は患者に勧めるように椅子を差し出すが、篤信は立ったまま顔を向けている。
「帰って参りました」篤信は改めて挨拶をする。
「一度帰っておいでとは言ったけど……、今回は本当に帰って来たな」
「――そうだね、その気は無かったけど、父さんに言われるとね」
「おいおい、私は無理強いはしてないんやけどなぁ――」父は小さく笑いながら自分よりも大きくなった息子の顔を見た。篤信はハッと息を呑んだ。
「別に怒ったりも嘆いたりもせんよ――。人生そうトントン拍子には進まないさ」
篤信は父と視線を合わせた。言葉に裏はない。その目は優しく、いつもの父と変わらないそれだ、話さなくても心の声を読まれているかのような。
篤信は今まで父に怒られたことがない。それは篤信ができた子供であったこともあるが、父の目には自省を促す眼力があるからだ。
「正直に言うよ。ショックに思わないでよ」篤信は観念した様子でぽつりぽつりと話し出した。
大学でちゃんと勉強はしているものの、大学の授業に付いていけないこと、東京に相談相手になってくれるような人間関係が築けていない現状、おそらく留年するであろうこと。
自らを律してきた自分に限界が感じられ、そんな中で父から帰省の誘いがあったのでここに帰って来た事――。
「以上か?」
父の素っ気ない返答。篤信はもう一度回答を考えたが、それ以上はまとまらなかった。
「大体そんなところです」
父はもう一度息子の顔を見た。ほんの数秒ほどだったが、篤信には長く感じた。
「留年しても気持ちは続くか?」
篤信は即答できないのを父は見逃さなかった。
「重症かな」父はそれでも暗い顔はしない、凹んで帰って来た息子を見て。
「付いて行けないなら辞めても構わんよ。医師だけが職業でもない。ただ自分がどう思うかだ」
父は息子を見上げると篤信の背筋が伸びた。
授業に付いていけないのは内容が難しいからではない。すべてのリズムがずれている、それをアジャストする方法が分からない。それが出来ない限りたとえ留年しても卒業できる自信は今の篤信にはない。だからといって大学を辞めて新しいことを始めるという自信も希望も思いきりもなく、結局宙ぶらりんな状態でいる自分が嫌だった。
「私だって大学入るのに3年足踏みしてる。篤信の同期生も大体が年上だろ?それに6年で卒業できん人もザラにいるし、ケツ割ってしまう人もいるだろう?」父は立ち上がり、篤信の肩を叩き、篤信の後ろに立つ。
「考え過ぎなんだよ」
診察室が一瞬静かになった。
「帰らないと言ったのも自分で言ったことやし、私はそうしろと言ってもないぞ。第一私は……」
篤信は後ろを振り向く。
「篤信に医者になれとも言ってないしな――」
「えっ、確かにそうだ」篤信は気付いた。今まで頑張ってきて、そしてつまづいた。それは親の期待でもない、自分が自分のためにしたことを。
「気持ちが途切れてないなら一年でも二年でも余分に勉強したらいい、そして帰って来たんなら休め、焦ったらドツボだ。それも勉強だ」
父は篤信の気持ちを完全に手玉に取って自在に操る。篤信はなすがままだ。
「あともう一つ。折角帰ってきたんやから、人に会ってきなさい。神戸の人なら話せることもあるだろう」
父は息子の表情をもう一度確認して再び笑い声をあげた。
「何だ、心配するほどの事でもなかったな。焦らんでええ。まだ篤信に病院譲るほど耄碌してないぞ私は。時間掛けてもいいから、自分なりに納得するまで考えるといい。さぁ、お茶でも飲もうかな……」
父は笑いながら診察室を出ていった。父にすれば篤信の悩みなど大した事ではないようだ。
「あ、それと。ドン連れて散歩にでも行っといで」
去り際に父がそう言った。すると病院の外でドンが呼ぶ声が聞こえた。