愛を抱いて 12
私は奇妙な感じがしたが、「いいえ、とんでもありません。」と答えた。
続いて彼女の妹がにこにこしながら現われ、「いらっしゃい…。」と云って好奇の眼を私に向けると、母親の隣に座った。
私は大学の事やアパート暮しの事について訊かれ、それに答えた後、伊勢崎の感想を述べた。
しばらくして香織が、「私の部屋へ行きましょう。」と云い、私と彼女は2階へ上がった。
彼女が灰皿を持って来てくれて、私は煙草に火を点けた。
二人で彼女のアルバムを視ていると、ノックの音がした。
妹がお菓子を持って入って来た。
お菓子を置いた後も、妹は出て行こうとせず、 「お姉ちゃん、いいかしら…?」 と、香織に一言云ってから、私に色々な質問を浴びせた。
「…作詞、作曲をなさってるんですってね?
お姉ちゃんが持って帰ってたテープ、聴かせてもらいました。
とっても良かったわ。
どんな時に唄って、できるんですか?」
「フレーズは色んな時に閃いたのを覚えておくか、譜面に書き留めておくんだ。
そして、作ろうかなって思った時に、その譜面を見ながらフレーズの前後を考えて、楽曲にして行くんだよ…。」
「曲と詞は、どっちが先にできるんですか?」
「俺の場合、曲を先に作るけど、フレーズが閃いた時にその部分の詞だけは、同時にできてる事が多いな…。
でも唄は、本当は詞が一番大事だと思うよ。
唄いたい事があって、初めて歌はできるんじゃないかな…。」
香織の妹は、眼を輝かせ真剣に私の話を聴いていた。
「…男女の仲は、二人きりで居る時にお互い何もする事がなく話す事もなくて、その沈黙の時間に耐えられる様になったら、二人で沈黙の時を平気で過ごせる様になったら、本物だって本で読んだんですけど、どう思われます?」
「俺は男女の仲については、あまり詳しくないから…。
でも多分、そうなんじゃない…?」
「あなた方お二人の場合は、どうですか?
沈黙にも平気ですか…?」
「あなた、もう下へ行った方がいいんじゃなくて…?」
香織が云った。
「はいはい。
どうも御邪魔様でした…。
御ゆっくり…。」
そう云って妹は、私に笑顔を送りながら部屋を出て行った。
〈二三、素敵な街[前編]〉
24. 素敵な街〔後編〕 ~母の哀しみ~
「御免なさいね。
厭な思いを、させてしまったかしら…?」
「全然…。
上品で優しそうな、良いオフクロさんだね。
それに、面白い妹さんだった…。」
我々は香織の家を後にした。
「またぜひ、いらして下さいね。」と彼女の母親は云った。
妹は我々が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「私、お母さんの様にだけは、なりたくないわ…。」
「何だい、突然?
あんな良いオフクロさんを、嫌いなのかい?」
「ううん。
好きだけど…。
家のは、私が小さい時からずっと身体が良くなくてね…。
それで母はいつも、お父さんに充分世話をしてあげられないと済まなそうにしていて、お父さんの親や親戚の人に必要以上に頭を低くしてたわ。
子供の私達にまで、気を使うの…。
あの人が自分から何かをしたい、何かを欲しいって云ったのを聴いた事は一度もないわ。
いつも自分の感情や望みを犠牲にして、家族や周りの者に気を使い続けて生きて来た人なのよ…。」
「偉いお母さんじゃないか…。」
「私はそんな生き方、厭だわ。
間違ってると思うわ…。
どうして家族にまで、遠慮する必要があるのよ?
お父さんが私や妹を叱ったり、家族の誰かが誰かに対して怒ったりした時、お母さんは自分が全然関係ない場合でも、自分のせいだと云って、皆に謝るのよ…。
私や妹がお母さんに叱られた事なんて、勿論ないわ。
一番身近な者にさえ云いたい事を云わずに、いいえ、云えずに毎日を送るなんて、人間として罪だわ…。
お母さんの事、好きだけど…。
お母さんを視てると、時々、許せなくなる事があるのよ…。」
「でも君は、初めからお母さんを許してるよ…。
君が許せないと思ってるのは、ずっと君のお母さんを包み続けて来た、哀しみだ…。」
「ニコラス」に着いた時、もう外は薄暗くなっていた。
柳沢や他のみんなが待っているその店へ、私と香織は入って行った。
「今日は一日中、お楽しみだった様だな…。」
ドロがニヤニヤしながら云った。
「鉄兵ちゃん、どこへ行って来たんだい?」
ヒロシが訊いた。
「前橋へ行って、それから…、彼女の家へ寄って来た…。」
「家へ行ったの?
彼女を下さいって云ったのかい…?」
「ああ…。
でも、やらないって云われた。」
「メシは食った?」
柳沢が云った。
「いや、まだだ…。」
「よし、じゃあ、美味いラーメン屋があるから、そこへ行こう。」
「美味いラーメン屋って、まさか…?」
香織が訊いた。
「そう。
『雷ラーメン』さ。」
「厭な予感がするな…。
また、変な店なんだろ…?」
私は香織に云った。
「いいえ。
今度は大丈夫よ。
メニューは日本語で書いてあるわ…。」
我々は「ニコラス」を出ると、単車と車で、その店へ出掛けた。
「雷ラーメン」は、街外れの国道沿いに在った。
「この『雷ラーメン』というのが、この店のお薦め品なんだ。」
柳沢はメニューを指しながら云った。
「もし、全部食べてくれたら、鉄兵の勘定はみんなで持つぜ。」
一同は頷いた。
私は既に、彼等の謀り事をおおよそ理解していた。
問題は、どんな代物が出て来るかであった。
「全部食べるとアイスクリームが付いて来るのよ。」
香織が云った。
「みんなも、同じ物を食べるのかい?」
私は訊いた。
「いや…、俺達はもう食べ飽きてるから、いいのさ。」
「やっぱり、可哀相だわ…。」
柳沢の彼女が云った。
「どんなラーメンが出て来るんだい?」
私はその彼女に訊いた。
どうやら、非常に大きな丼に、途轍もなく辛いラーメンが入って、出て来るらしかった。
「水は何杯お代りしても良いぜ。」
私は「雷ラーメン」を注文した。
一同は驚異の眼で私を視ていた。
私は猫舌であったが、辛いのにはかなり平気な方だった。
以前、30倍辛いカレーというのを食べた事もあった。
私は両手で丼を持ち、汁を全部啜り終えると、空になった丼をテーブルの上に置いた。
すぐにアイスクリームが出て来た。
「恐れ入ったな…。」
一同は、信じられないと言う顔付きをしていた。
「鉄兵さん、凄いわ。
私、全部食べた人を初めて視ちゃった…。」
柳沢の彼女は云った。
「実は…、この中の誰も、まだ『雷ラーメン』を全部食べた事がないんだ。
ヒロシなんか、汁を一口飲んだだけで、リタイアだった…。」
柳沢が云った。
「約束通り、奢ってもらえるんだろうな…。」
私は云った。
「勿論さ。
全部食べてくれなくても、注文してくれれば奢るつもりだった…。」
次ぐ29日、朝、私は眠い処を起こされて、柳沢の家の階段を降りて行くと、玄関に香織が立っていた。