愛を抱いて 12
23. 素敵な街〔前編〕
8月26日、私は広島を発ち、東京へ向かった。
ヒロシと香織と世樹子も盆前に帰省し、中野にはまだ誰も戻って来てなかった。
その夜は、久しぶりに三栄荘で眠った。
翌27日、上野から高崎線に乗った。
本庄で電車を降りた。
電話での約束通り、柳沢が車で迎えに来ていてくれた。
彼は夏休みの帰省中に運転免許を取得していた。
広い川に架かった橋を渡って、車は伊勢崎市へ入った。
その日から2晩程、私は柳沢の家に泊めてもらう事になっていた。
夜になって、ヒロシとドロが柳沢の家にやって来た。
我々は再会を祝して乾杯した。
「鉄兵ちゃん、本当によく来てくれたな…。
いつまで居れるの?」
ヒロシは云った。
「土曜日まで…。」
「大学はまだだろう?
もっとゆっくり居なよ。」
「ああ。
そうしたいけど、サークルの旅行があるんだ。」
「ところで、久保田に逢いに来たのか…?」
ドロが云った。
「まさか…。
どうせ東京で逢えるさ。
観光に来たんだ。」
「でも久保田は当然、来てる事を知ってるんだろ?」
「いや。
彼女には別に知らせてない。」
「あれ?
本当に連絡しなかったんだ…?」
柳沢が云った。
「鉄兵は俺達の話を聴いて、どうしてもこの街を視ておきたいって思ったんだってさ…。」
「何もない、つまらない街で、がっかりしたろう?」
「いや、期待してた通りの、素敵な街だ…。」
伊勢崎市には高いビルが1つもなく、柳沢の家の2階からは、街の随分遠くまで見渡す事ができた。
街路は閑散として、人も車も少なく、青い空のずっと下にある白い街並は、どこかのんびりした印象を、私に与えた。
それは、私が想像していた通りの、小さくて温かい街だった。
そして、柳沢とヒロシとドロと、香織や世樹子やフー子が、高校3年までを過ごした街でもあった。
次の日、我々は昼前に眼を覚まし、結局前夜は柳沢の家に泊まったドロとヒロシと、私と柳沢の4人で出かけた。
「ニコラス」という名のその喫茶店は、窓と入口を除いて建物中がよく繁った蔦の葉に包まれていた。
柳沢の彼女と、その友達の三人の女子高生達は、先に来て待っていた。
「しかし、久保田も変わったよな…。」
ドロが云った。
「だろう?
俺は未だに、彼女が男のために料理を作るなんて信じられないよ…。」
ヒロシが云った。
「やはり、鉄兵の力は大したものだ…。」
私は女子高生との会話に夢中だった。
我々が昼食を食べながら雑談に花を咲かせていた時、不意に柳沢が 「あれ…?」 と、窓の方を視て云った。
一同は窓の外に眼をやった。
喫茶店の前に停まった赤い車から、数人の女が降り立った処であった。
その中に香織がいた。
他の女は皆知らない顔だった。
彼女達はドアを押して、店の中に入って来た。
すぐに香織は我々に気づいた。
「あら…。」
「ハイ…。」
柳沢が片手をあげた。
その隣に座っている私を見つけて、香織は愕きの表情をした。
「…どうして、あなたがこんな処に居るの?」
「どうしてって、久し振りに逢ったのに、まるで居てはいけないみたいだな…。」
私は云った。
香織は笑った。
「そういう意味じゃないわよ…。」
前橋駅から真っ直ぐ北へ延びている広い道路は、原宿の表参道に大変よく似ていた。
「ねえ、どうして私に隠してたの?」
欅並木の舗道を歩きながら、香織は云った。
「別に隠すつもりなんかなかったさ。
来れば、どうせ逢えるだろうから、愕かそうと思ったんだ。」
「確かに、うちはそれ程小さな街だけど…、でも本当かしら…?
まあ、あなたも大胆だわね。
私の実家の在る街へ来て、ナンパしようとするなんて…。」
「違うってば…。
何を根拠にそんな事を…。
君だって、昨日はさっさと帰っちゃって、冷たかったじゃない?」
「あら?
だって、高校生の女の子と随分楽しそうだったから、悪いと思って…。」
「あれは、柳沢の彼女と、その友達だぜ…。」
「知ってるわよ…。」
香織は、相変わらず口は悪かったが、故郷に帰っているせいか、とても和らいだ表情をしていた。
「ここに入りましょ…。」
香織に連れられて、私は建物の2階にあるドイツ語らしい名前の喫茶店へ入った。
「いらっしゃいませ…。」
席に腰掛けると、ウェイターがメニューを差し出した。
メニューを開いて私は愕いた。
それは全てドイツ語で書かれ、どこを捜しても日本語が一語も見当たらなかった。
香織はわけの解らない言葉を発して、さっさと注文を終えた。
「あ…、俺もそれでいい…。」
私は香織と同じ物を頼もうとした。
「品名を仰有って下さらなければ、注文を御受け出来ません。」
ウェイターが云った。
私は再び愕いた。
香織は口もとをほころばせながら、黙っていた。
私は仕方なくメニューを指差した。
「これ下さい…。」
「どうぞ、品名を仰有って下さい。」
ウェイターは重ねて云った。
私は大学の第二外国語でドイツ語を選択していたが、出席を採る授業にしか出ておらず、授業に出ても漫画雑誌を読んでるか眠っているかだったので、つまりドイツ語が皆目解らなかった。
少し腹が立って来ていたが、私はもう一度メニューをじっくり見直した。
何が出て来るのかが想像出来て、正しく発音できそうなのは、MILKだけだった。
「メルヒ!」
私は云った。
「畏まりました…。」
ウェイターは下がって行った。
香織が私をその店に計画的に連れて来た事は、明らかだった。
ウェイターが注文の品を持って再びやって来た。
香織のは、クリーム・ソーダだった。
私の前に置かれた物を視て、私はまたも愕かされる破目になった。
それは、途轍もなく大きな哺乳瓶であった。
私は茫然とその哺乳瓶を見つめた。
香織は下を向いて、クックッと完全に笑っていた。
周りに居る他の客達も、こちらを視て笑っている様だった。
「なる程…。」
私は柳沢が以前、前橋に面白い店が在ると云っていたのを想い出した。
「この店ではね、注文した物は残しちゃいけないのよ。」
香織が云った。
我々は伊勢崎に戻るため、電車に乗った。
「ねえ、これから家に来ない?」
「君の家へかい?」
「ええ。
実はあなたが来るって、一応家の者に云ってあるのよ。」
私は昔から、付き合っている女の親に逢う事を好まなかった。
「厭だったら、別にいいのよ…。」
「厭じゃないけど…、何か恐縮してしまいそうだな…。」
「家のは、気を使う様な親じゃないわ。」
「そう言えば、君のお母さんは身体が悪かったらしいが、今はもう良いのかい?」
「ええ。
健康体とは言えないけど、一応元気よ。」
香織の実家は、街の西端と言った場所に在った。
玄関を上がると、応接間へ通され、彼女の母親がお茶を持って入って来た。
「初めまして…。
本当によく来て下さいました。
いつも、香織が御世話になっています…。」