愛を抱いて 9
美穂は 「いえ、いいんです。 また来ます。」 と云って、わけの解らないままに外へ出たのだった。 ──
「だけど、ノブちゃんだっけ?
彼女はとても感じの良い娘だったわ…。
…香織さんと違って。」
電車は次第に東京に近づいていた。
私は「もし、私という人間が存在しない世界で、香織と美穂が知り合ったとしたら、二人は友達になれただろうか?」という事を、考えていた。
しかしすぐに、考えるのを止めた。
(俺がいないのなら、彼女等が友達になれたかどうかなんて、俺には関係のない事だ…。)
「君はテニスには、行かないんだって?」
翌日からは、サークルのテニス合宿だった。
「うん。
友達との旅行と、重なっちゃったの。」
「どこへ行くんだい?」
「北海道。
いいでしょう。」
私は朝の埋め合わせを考えて、二人だけでどこかへ旅行しようと云った。
「本当?
嬉しいわ。
でも無理してるんじゃない?」
「無理なんかしてるものか。
遠い処へ行こうって云っただろう。
どこへ行くかは、君が北海道から帰って来るまでに考えておくよ。」
「うん。
楽しみにしてるわ。」
電車は品川に到着した。
〈一七、御対面事件〉
18.同棲週間
私の所属する「徒歩旅行愛好会」は、その名の通り、元々徒歩旅行を目的としたサークルであった。
しかしその活動内容は、夏休み前半のテニス合宿、後半の国内旅行、秋の温泉旅行、冬休みのスキー合宿、春休みの国内旅行、が主なものだった。
テニス合宿は、7月24日から26日まで軽井沢で行われた。
合宿と言っても、大会に備えての練習という様な事ではなく、ただ遊び気分でテニスをしに行くだけであった。
そして軽井沢から帰って来た時、7月半ばからある程度予想されていた通り、私の経済情勢は大いに悪化していた。
7月27日の朝、私の財布には千円札1枚しかなかった。
仕送りが振り込まれる銀行の口座にも、利子しか残ってなかった。
その夜夕食を終えた時、私の所持金の総額は200円であった。
私はその最後の200円で、煙草を買った。
7月28日、私は文字通り一文無しとなった。
午前10時頃、一度眼を覚ましたが、また寝た。
11時に再び眼が覚めた。
もう眠れなかった。
私はテレビをつけた。
部屋の中は暑くなって来たが、動けば腹が減ると思い、じっとしている事に決めた。
外へ出ても、どこへも行けなかった。
冷房のある喫茶店へは勿論行けず、電車にも乗れず、電話さえかける事ができなかった。
私は布団の上に寝転がり、テレビを眺め続けた。
時計の針は緩慢に、少しずつ時を刻んだ。
午後1時を廻った頃、煙草が終わった。
空腹は心配しなかったが、煙草が切れた事は問題であった。
私は初めて危機感を覚えた。
テレビが3時のワイド・ショー番組を始めた時、階段を上って来る足音が聴こえ、足音が止むと、私の部屋のドアをノックする音が響いた。
「朝日新聞ですけど。
集金に参りました。」
私は息を潜め、黙っていた。
しかしテレビの音が、廊下まで聴こえてしまっているはずだった。
私はじっとして、「早く諦めて帰れ。」と念じた。
もう一度ノックの音がした。
「朝日新聞ですけど…。
鉄兵、居るんでしょ?」
私はやっと、声に凄く聴き覚えのある事に気づいた。
私は立って、ドアを開けた。
「NHKですけど。
ちゃんと受信料払ってますか…?」
香織は云った。
「この部屋も暑いわねぇ。
サテンへでも行きましょうよ。」
香織は手で、顔に風を送りながら云った。
「そうだな。
でも…。」
「でも、どうしたの?
行きたくないの?」
「いや、行きたい。」
「じゃあ、行きましょう。」
「でも…。」
「何なのよ?」
「…金が無い。」
「さだひろ」で、注文した「ハンバーグ・ライス・セット」がテーブルに置かれるや否や、私はフォークだけを右手に持ち夢中で食べ始めた。
「本当に、ゆうべから何も食べてないみたいね。」
香織はアイス・ティーをストローで飲みながら云った。
「それで、もし私が来なかったら、どうするつもりだったわけ?
10円玉もなくて。
誰かが来るまで、あの部屋でじっとしてるつもりだったの?
ずっと誰も来なかったら、飢え死にだわねぇ…。」
私は口に食べ物を入れたまま、喋りかけた。
「いいわよ。
食べ終わってからで…。」
空いた皿にフォークを置くと、私は「さだひろ」に来る途中、香織に買ってもらったセブンスターに火を点けた。
「俺は今朝、蓑虫になったんだ…。」
「蓑虫?
何それ?」
「自分に『俺は蓑虫だ。』と暗示をかけた。
そして、じっとしてたんだ。」
「なる程…。
夏の蓑虫ね。」
「本当は君が来てくれると思ってたのさ。
日曜のうちに軽井沢から帰って来るのを君は知ってるし、ただ、おとといの夜か昨日来ると思ってたから、少し不安になってたけど…。」
美穂とのあの事があった後なので、少なくとも彼女の方からは当分逢いにやって来ないであろう事は、充分考えられた。
柳沢もフー子も帰省してしまったし、他の金を借りられる知人は皆区外に住んでいるので、その日の夜までに香織が顔を見せなければ、こちらから飯野荘へ出かけるつもりであった。
しかし私は、香織は必ずやって来ると確信していた。
「昨日来ようと思ってたのよ。
でも急にクラスの娘等が、海へ行こうって云うものだから…、行っちゃったの。
そうと知ってれば、誘いを断わって昨日来たのに…。」
「ねえ、3時過ぎに食べてるから、まだあまりお腹空いてないかしら…?
もう少し遅くに作りましょうか?
でも何も食べてなかったんだから、もう空いてるかしら?」
部屋の時計は、午後6時半を少し過ぎていた。
「君が食べたい時間に合わせて作ればいい。
買ったのも作るのも、君なんだから。」
「私は何時でも構わないのよ。
貧しいあなたのために作るんだから。」
「じゃあ、もっと遅く、…8時頃に食べれるぐらいがいいな。」
「そう。
そうするわ。」
香織は「西友」の袋から取り出しかけた夕食の材料を、袋の中へ戻して、私に寄り添った。 「それで、お金はいつ入るの?」
「はて…?
いつかな?」
「ちゃんと見通しはあるんでしょ?」
彼女は私との夏休みの予定のために、確認しておきたいらしかった。
「仕送りは確か月末だったわよね。」
「8月分の仕送りは、多分来ないと思うな。」
「そうなの?
じゃあ、バイトするの?」
「俺、バイトはしない主義なんだ。」
「しない主義って、お金がなきゃ仕方ないでしょ。
どうやって生活するつもりなの?」
「どうしよう?」
「呆れた人ね…。」
私は彼女の膝の上に頭を乗せ、横になった。
「まるでヒモね…。」
彼女は云った。
「まるでは、余計だ。」
「私、生活力の無い男って嫌いよ。」
「嫌いでいいから、食べさせてくれ。」