愛を抱いて 8
それはおかしいな…。
変な噂だったんだろう?」
「逢ったばかりで、まだよく分からないって事よ。」
香織が云った。
「私、話を聴いて、素敵な人だなぁって…、思ったわよ…。」
「そうなの?
あなたも変わってるわね。
それとも、私の日本語が間違ってたかしら…?」
「いや、君の日本語はどうか知らないが、ノブちゃんは正常さ。
君が悪意で飾った言葉の裏に、真実の俺の姿を見抜いてくれたのさ。」
「あら、随分じゃない?
私はあなたの真実の姿しか、話してないわよ。」
「そうだとしても、ノブちゃんは正しい。
変わってるのは、君の方じゃないのか?」
「ノブ、いいから。
この人に本当の事を云ってやりなさいよ。」
「私、本当の事を云ったのよ…。
変わっていて、素敵な人だと思うわ。」
その時、窓の下の方で、物音と微かな女の声がした。
「あら、また誰か来たみたいね。」
香織が云った。
「俺の処へ?
まさか。」
「鉄兵君…。」
声がそう云った。
私は開いた窓から顔を出して、外を視た。
「鉄兵君…。
香織ちゃん…。」
声が今度はそう云った。
世樹子だった。
私と香織は顔を見合わせてから、部屋を出た。
「来なくていいと云ったのに…。」
階段を下りながら、私は云った。
「ここへ来るって云ったの?
でも、どうしたのかしら…?」
たしかに世樹子の声は、少し様子がおかしかった。
靴箱の前に世樹子が立っていた。
「あ、鉄兵君、香織ちゃん…!」
彼女は、我々の顔を視てそう呼んだかと思うと、声をあげて泣き出した。
大きな瞳から、涙が次々に溢れた。
「おいおい。
どうしたんだよ?」
「…いたの。
…路の横…。
…怖かったの。
…御免なさい。
路が違ってて…。
怖かったの…。」
彼女はしゃくり上げて、上手く言葉にならなかった。
「どうしたの…?
…話は後で。
さあ、もう、泣かないで…。」
香織は世樹子の頭を胸に抱いた。
「とにかく、上がって。
部屋へ入りなよ。」
私は云い、香織に抱いてもらったまま、世樹子は階段を上った。
「香織ちゃん…、御免なさい…。
鍵を持って…。
御免なさ…。」
「いいのよ、それは。
もういいんだから…。」
布団でぐっすり眠っている説子の横で、ノブが驚いた表情で、部屋へ入って来た3人を迎えた。
〈一五、同窓会の夜〉
16.中野の怪
やっと落ち着きを取り戻して、世樹子は云った。
「本当に御免ね。
香織ちゃん。
ノブちゃんも…。」
世樹子は友人の相談に乗ってやっていて、話し込んでしまったらしかった。
「だから、もういいって云ったでしょ。
それより、何がいたのよ?」
「鉄兵君に電話もらった後、すぐに出かけたの。
そしたら、途中の暗い路に…。」
「どの辺?」
「公園を過ぎて、煙草の自動販売機の処を曲がって行く…。」
「ああ、新井通りに出るまでの、細い路ね。」
「あの路、真っ暗だから厭だったんだけど、急がなきゃと思って、通ったの…。
そしたら、右側のこんもりした木が立ってる処に、居たの…。」
「何が?」
世樹子はまた涙を浮かべた。
「分からない…。」
「痴漢かい?」
私は云った。
「分からないの。
でもいたのよ…。
…動いたの。」
「人間じゃないの?」
世樹子はただ、分からないを繰り返すだけだった。
「幽霊かな…?」
「やめなさいよ。」
香織が云った。
世樹子は小さく震え始めた。
「だって、シーズンに入ったし、あり得るぜ。」
「悪い冗談だわ。
世樹子が可哀相でしょ。」
「冗談なんかじゃないさ。
中野には狐だって住んでるんだぜ。」
世樹子はようやく少し笑顔を見せた。
「今日、自分の鍵を作ったから…、香織ちゃん、これ返すわね…。」
世樹子はポケットから鍵を取り出して、香織に渡した。
「馬鹿ね…。
わざわざ持って来なくったって良いのに。」
「それにしても、俺が電話してから随分経ってるぜ。
すぐ部屋を出たんだろう?」
「ええ…。
そうなんだけど…、怖くて夢中で走ってたら、いつの間にか全然知らない路にいたの。」
「まあ、何度も往復してるのに、迷ったの?」
「怖かったわ。
もう駄目かも知れないって、思った…。」
「命がなくなるとでも、思ったのかい?」
私は笑った。
「ええ。
生きてる心地がしなかったわ。
あの川と橋が見えた時は、本当に嬉しくて…、鉄兵君と香織ちゃんの顔を見たら、涙が出て来ちゃった…。」
世樹子は真面目な顔をして云った。
「やっぱり、狐はいたんだ…。」
私は云った。
「そうね。
本当にいるのかもね。
それにしても、女の子の深夜の一人歩きなんて絶対に良くないわ。
世樹子も今夜はここに泊まって行きなさいよ。」
「ありがとう。
でも今夜は取り込んでる様だから、私は帰るわ。
部屋の電気もつけたままで来ちゃったし…。」
世樹子は、よく眠っている説子に目をやりながら云った。
私は世樹子を飯野荘へ送り届ける事になった。
「鉄兵君、御免なさいね。
変な話を聴かせた上に、送ってもらったりして…、私、みんなに迷惑ばかりかけてるわ。」
「俺の事は迷惑じゃないさ。
女の子を送ってくのは俺の趣味だし、君が逢ったその路の横に居たものにも、大いに興味がある。
まだ、そこに居るかな?」
「ええ?
もう、居ないわよ。
絶対。」
「まあ、そうだろうな。
でももし、まだ居れば面白いのに…。」
深夜の住宅街は、いつもにも増してやけに静かで、街灯の明りも、心なしか薄暗く見えた。
「どうも今夜は、静かで暗いと思わない?」
私は云った。
「この辺は、いつだって静かだわ。
でも、普段より暗い気はするわね。
来る時も、そうだった…。」
世樹子は不安げな声になった。
「普段は宴会ばかりやってるから、きっと明るく見えてたんだよ。」
また泣かれては困ると思い、私はそう云った。
我々は刑務所のそばを通り過ぎて、新井通りに出た。
そして問題の、街灯のない細い路地の前に来た。
「どうする?
怖ければ遠回りするけど…。」
私は訊いた。
「鉄兵君は行ってみたいんでしょう?」
「うん。
でも君が厭なら、無理は云わないさ。」
「鉄兵君が一緒なら、怖くはないわ。」
「よし。
じゃあ、通ってみるかい?」
世樹子は黙って頷き、私の腕にしがみついた。
我々は真っ暗な狭い路へ入って行った。
確かに痴漢が出ても不思議はないと、私は思った。
「ここよ…。
ここに居たの…。」
世樹子が示した場所は、もう人が住んでいない古い家の庭先だった。
庭と路の境に立っていたらしい板屏は、ほとんど崩れてしまって、両端に少ししか残ってなかった。
庭の真ん中に、そんなに大きくはないが、かなり樹齢が行っていると思われる柿の木があった。
古い木であるが、まだ葉がこんもり繁っていた。
その木の前に、それはいたと世樹子は云った。