愛を抱いて 8
非常に暗くて、彼女が何であるのか分からなかったと云った事は、納得できた。
私は、その木の処まで行ってみようとした。
「やめなさいよ…。」
世樹子が私の腕を引っ張った。
「ちょっとだけさ。
まだ隠れてるかも知れない。」
世樹子は私の腕から手を放さなかった。
「急に襲われたら、どうするの?」
「痴漢は男を襲ったりしないよ。」
「痴漢じゃなくて、もっと怖いものかも知れなくてよ。」
「もっと怖いものって、どんなものさ?」
「人間じゃないかも知れないって事よ…。」
世樹子は声を強張らせた。
「この世に人間より怖いものなんていないさ。」
私は雑草を踏み分けて、古木のそばへ近寄った。
木の前にも後ろにも、何もいなかった。
私はその木をじっと見つめた。
「こっちへ来て御覧よ。」
私は世樹子に声をかけた。
「怖いわ。」
「大丈夫。
何もいないよ。」
世樹子は恐る恐る庭に足を踏み入れ、半分からこちらへは、私のそばまで走り寄った。
「これを視て。」
私は木の幹を指した。
幹の根元に近い処が、まだ濡れて光っていた。
「ところで、部屋で布団に寝ていた人は誰なのかしら?
鉄兵君。」
世樹子はいつもの調子に戻っていた。
「ああ。
高校の時の同級生さ。
今日、東京に来てる者で同窓会をやって、彼女が潰れちゃったんだ。」
「そう。
それで、香織ちゃんは何て云ってた?」
「別に…、何とも云わなかったと思うが…。」
「ちゃんと上手く説明して、解ってもらった?」
「解ってもらう様な事じゃないさ。」
「そう。
じゃあ、香織ちゃんは納得してくれたんだ。」
我々は飯野荘の前に着いた。
「本当にどうもありがとう。
今日は御免なさい…。」
「送るのが趣味って云ったろう。
寝不足は美容に良くないから、早く上がって休みなさい。」
「はあい。
でも鉄兵君、帰っても布団ないんじゃないの?」
「多分な。
いいさ、ゴロ寝には慣れてる。」
「私は構わないから、良かったら家で寝て行って。」
「そいつは非常に嬉しいな。
ぜひそうしたいけど、明日が怖いから…。」
「そうね…。
香織ちゃんに怒られるわね。」
「いや。
香織に怒られるのは別に好いんだが、君に怒られそうだ。」
「どうして私が怒るの?」
「俺は女の子と一緒に寝て、何もしない男じゃないぜ。」
「まあ、そうなの…。
でも、私も何かされて何もしない女じゃないから、大丈夫よ。」
「だから怖いって云ったのさ。
俺が大丈夫じゃないよ。」
「そうね…。」
世樹子は笑った。
「やっぱり人間が一番怖いって事ね。」
「そうさ。
もう中へ入りな。
俺も行くから。」
「あ、御免なさい。
気をつけて帰ってね。
おやすみなさい。」
彼女はアパートの中へ駆けて行った。
私は、既に夜明けの迫っている街を歩き始めた。
再び空き家の前を通り、古木の前辺りを視た。
そこには、以前その家に住んでいたこの街の人間の、喜びや哀しみや、そして恐怖が見えて来そうな気がした。
古木はきっと、それ等をまだ覚えている様にも思えた。
しかしそこには、何もいなかった。
「俺達も…。」
と考えかけて、私は止めた。
「幾ら想いを残して去って行っても、何も残せはしないさ…。」
私は心に、そう云い聴かせていた。
部屋へ帰ると、2つの布団を敷いて、3人の女が眠っていた。
私は窓のそばへ行き、カーペットの上に身体を倒した。
〈一六、中野の怪〉