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風鳴の祭

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 母親に咎められそうな気がして、キサは恐る恐る振り返り、母親の様子を伺った。しかし疲れきった表情の彼女はただ無言で立ち尽くしている。
 キサは罪悪感を覚え、口籠りながら言った。
「流しの修理、忘れてないから……帰ってきたらちゃんとするよ」
「お願いね。父さんが帰ってきたら頼もうと思ったんだけど、今夜も遅くなりそうだから……」
「分かった……」
 ナユタは玄関先にいた。いらついたように足踏みをしていたが、キサの顔を見るや不機嫌そうな声を発した。
「遅いよ、早くしないと約束の時間に遅れちゃうぞ」
「え、もうそんな時間……?」
 慌ててズボンのポケットから懐中時計を取り出し時間を確認する。
「大変、もうこんな時間なんだ……母さん、風鳴りのお守り、流してくるね」
「キサ」
「……?」
 母親の声にキサは振り返った。もしかして、お守りを買うお金で星図盤を買ってしまったことがばれているのだろうか? だが、叱られることを覚悟して首をすくめた彼の耳に入ってきたのは、何処か申し訳なさそうにつぶやく、母の声だった。
「すまないね。本当はいつものお祭りと同じように家族みんなでお祝いしたいんだけど、ナエの病気がよくないから、その……」
 妹のナエの病状が芳しくないことはキサにも判っている。両親が彼女の治療費を作るために過剰な労働を甘受していることも知っていた。
 キサは、母親の瞳が疲れにかすんでいることに気づいた。何かなぐさめになるような言葉をかけてあげようと思うが、いくら考えても良い言葉は思い浮かばなかった。
 しばしの沈黙の後、ようやく言えたのはいつもと同じ挨拶だった。
「うん、判っているよ、じゃあ行ってきます」
「気をつけるんだよ。ナユタさんもね」

 3

 街は既にチャコールグレイの闇に閉ざされていたが、いつにない熱気が沸き立ち、賑わいを見せていた。
 普段ならこの時間、職場や炭坑から帰宅する大人達の疲れきった行列が黙々と行き交うだけの大通りに、今は多くの女子供の姿があった。誰もがどこか浮き足立っているかの様にそわそわと歩き、頭上を見上げてはお守りを流すに適した窓やテラスを探している。
 ナユタに引かれるようにして、人の流れに逆らって歩いていたキサの傍らで一群の子供達が歓声を上げた。
 子供達の輪の中の一人が空を指差し、声高に叫んだ。

 ”プラーナ、雲を吹き飛ばせ!!”

 少年を取り囲む他の子供達が、彼の声に合わせて唱和する。

 ”プラーナ、プラーナ!!
  雲を吹き飛ばせ!! 雲を吹き飛ばせ!!”

 再び沸き起こる歓声。子供達は競うようにして、キサ達が歩いてきた通りを駆け抜けていった。
 一瞬、キサは不思議な既視感を覚えていた。1年前の祭の光景が彼の視界に重なる。あの時彼は妹を母の手に預け、他の子供達と一緒に通りを駆けていた。
 彼らの後を追うべきだろうか……去って行く子供達の後姿を見送りながら、キサはふとそんな事を思った。今からなら、彼らに追いつける。一緒に高いテラスに昇って、外套のポケットに収めたお守りを取り出して、そして……。
 彼は無意識のうちにポケットに手を伸ばしていた。固いボタンを外して中をまさぐる。その感触が彼を記憶の中の風景から引き戻した。
「どうしたんだい、カッツェが待っているんだ。早く行こう」
 不意に、自分に向かって投げかけられたその声に、キサは慌てて周囲を見まわした。ナユタがじれったそうな表情を浮かべて彼を見返していた。
「……なにをぼんやりしているんだい?」
「う、ううん……なんでもないんだ」
 ナユタはなお不審そうに首を傾げていたが、やがて向き直ると、道の先を急いで歩き出す。キサは置いてけぼりにならないよう、息を切らしながらその後を追いかけた。

 大通りを人気のないところまで進むと、ナユタとキサは狭い路地に入り、建物の隙間を抜けるように進んで行った。路地は暗く、普段人が往来することがほとんどないせいか、その地面には汚水がたまり、不潔な匂いを放っている。キサは外套の袖で鼻を覆ってその匂いを嗅がないよう注意しながら慎重に歩を進めた。
 やがて路地は、煤けた鋼板の壁にさえぎられ、行き止まりになった。
「行き止まりだよ、ナユタ。どうするの?」
「このはしごを昇るんだ」
 ナユタが指し示したのは古びて今にも壊れそうなはしごだった。
「これを昇るの…?」
 不安にかられたキサが声を上げる。
「カッツェはこの上のプラットホームで待っているんだ。これを昇らなきゃ仕方がないだろう?」
「うん、だけど…」
 ナユタは、キサの返事を聞こうともせず、はしごに取りつくと軽快な足取りで昇り始めた。壁は相当の高さがあるようで、その頂上は暗闇にまぎれて見て取る事が出来ない。
 キサはしばし躊躇していたが、やがて意を決するとはしごに取りつき、足元を確かめながらゆっくりと昇り始めた。
 新たな段を握る度に、ぱらぱらと顔に錆の破片が降りかかってくる。一陣の強い風が吹き抜け、キサは思わずはしごを握る手を離してしまいそうになる。慌ててはしごにしがみつくと、錆の浮いた支柱がか細い悲鳴のような軋みを発した
 落ちたら死んでしまうかもしれない……そう思った瞬間、キサの体の奥から激しい恐怖感が湧き上がった。
 凍てつくような風が彼の頬を打ち、彼の体温を奪う。身体の震えが止まらないのは、この冷たい風のせいなのか、それとも……?
 これ以上、昇ることはできない、下に降りよう……キサは、彼のだいぶ先を昇っているであろうナユタに向かって声をかけた。
「ねえ、ナユタ、僕はこれ以上昇れないよ」
 返事はない。頭上は暗闇に閉ざされ、もはやナユタの姿すら見極めることは出来ない。「ねえったら」
 再びキサは呼びかけたが、その声はむなしく木霊し、闇に吸い込まれてしまう。
 吹きつける風はますます強くなり、支柱を握る指先の感覚は失われつつあった。
 これ以上ははしごに捉まっているのも辛かった。ナユタとカッツェには後で謝ろう。きっと、ナユタは怒るだろうけど……キサは長いため息を吐き出すと、つま先で足場を探りながらゆっくりとはしごを降り始める。
 視界を何かがかすめた。小さな光の点だった。誰かが上の階層からお守りを流したのだろうか……。キサは風に流されるお守りの行方を探ろうと、闇の中に浮かぶかすかな光に目を凝らした。だが、その光点はいつまで経っても動くことはなく、はかなくおぼろげな光を放ちつつ、ちらちらと明滅していた。
 胸元に固い触感を感じ、キサは足を止めた。外套の下に押し込んであった星図盤がはしごの支柱に当たって胸を押し付けていた。
 何かが雷光のように、脳裏を駆け抜ける。自分を呼ぶ声が聞こえたような気がして、キサは再び頭上を見上げた。闇に慣れてきたせいか、夜空を流れて行く雲の動きが先ほどよりもはっきり見える。その薄く流れる雲の向こう側に、確かにあの光点はあった。
 ……ひとつだけではない。
 壁に挟まれた矩形の空に、ちらほらとまぶされたような小さな光点の群れがあった。最初に見つけたものと同じように、それらの光点ははかなくおぼろげだったが、街の空を覆う分厚い雲を流す風に動じることもなく、明滅を繰り返している。
作品名:風鳴の祭 作家名:かにす