風鳴の祭
言われて初めて、キサは文化地区に来た本当の目的を思い出した。
「そうだ、お守りを買わなきゃいけないのに、僕は……」
「その変なのだって、2500もするものか。きっとお金を騙しとられたんだよ、そのじいさんに」
「どうしよう……」
キサは助けを求めるように二人の後を少し遅れて歩いてくるカッツェに視線を向けた
「ここは、許可された商品を許可された金額で売る、商業地区とは違うんだよ」
「……」
「君は、その星図盤が気に入ったんだろ?」
「うん……」
「じっさんは、君に星図盤を売ることに満足を覚えた。そしてそれぞれその対価が100フロスで妥当だと思った。だから商売はそれで成立。どっちも損をしたわけじゃない」
「でもなあ、そのじいさんはキサがお守りを買いにここに来たことを聞いて知ってたんだろ?」
「自分の金で何を買うか、何をどうするか、決めるのは彼だよ。君じゃない」
「君までそんなことを言うのか、やっぱり文化地区の連中は信用できないな」
「僕は君たちがここに来たいというから、案内しただけだよ」
「やめてよ、二人とも!!」
険悪な口調になりつつあった二人の会話にキサが割って入った。
「だって、キサ、僕は君が……」
「ごめん、ナユタ。でも僕はこれを買ったことを後悔していないよ」
「キサ……」
キサは立ち止まると星図盤に視線を降ろした。淡い陽の光の元でも、星図盤は変わることなく藍色の深みをたたえ、美しく輝いている。
「これの本物が見られたらなぁ……」
キサは嘆息した。
肩を落としたキサに向かってナユタが尋ねた。
「本物って?」
「星だよ。ほら、この星図盤に描かれているものが、この空の雲の上にもあるんだってさ」
二人は空を見上げる。この低い階層から見上げる空は、ふだん彼らが見なれている空よりもさらに狭く、そして薄暗かった。
ナユタは不機嫌そうに言った。
「無理だよ、あの雲をどうやって退かすんだい? あれが空を覆っている限り、そんなもの見えるはずないさ」
「無理かなぁ、やっぱり……」
キサはがっくりとうなだれ、もう一度大きなため息をついた。と、カッツェが彼の肩をぽんと叩いた。
「見られるさ」
「え……、見られるの? 本物の星が?」
キサの問いかけにカッツェは小さくうなずいてみせた。
「一年に一度、風鳴りの祭の日の頃、空を覆う雲が風に流されて本当の星空が見えるんだ」
「風鳴りの祭の日に……?」
キサは去年の祭の夜のことを思い返してみた。
ミーツハオスのベランダから、風に流されるお守りの明かりを見物したこと、商業地区のレストランで祭の料理を食べたことは思い出されたが、星を観た記憶はない。そのことをカッツェに言うと、彼は笑いながら答えた。
「だって君、その夜星が見えると知っていたわけではないだろう?」
「うん、今、はじめて知った」
「星があるとも知らずに、夜に空を見上げるかい?」
カッツェの言葉に、キサはうなずくしかなかった。
確かに、星を見る事ができると知らなければ夜に空を見上げることなどないだろう。
もしかするとベランダからお守りの見物をした際に見上げていたのかも知れないが、小さく瞬いている光の全てが風に流されたお守りだと思い込んでいて、見落としたのかも知れない。
「そうだよね、空を見上げるなんて、普通しない」
「キサ、その星ってのを見に行かないか?」
唐突にナユタがそう言い出したので、キサは目を丸くして驚いた。
「え、星を見に行く?」
先ほどまでの不機嫌そうな表情はどこへ行ってしまったのか、ナユタは素敵な悪戯を思い付いた時のように目を輝かせながら言葉を続けた。
「もちろん、街の一番高いところに行ってさ、星を見ながらお守りを風に流すんだ」
どうもナユタは、キサがお守りを買うお金を使い込んでしまったことをもう忘れてしまったらしい。
「でも、どうやってそこまで行くの? 高い階層は立ち入り禁止だし、第一どこが街の一番高い場所なのか、僕には判らないよ」
「カッツェなら知ってるだろ?」
ナユタに話を振られて、カッツェは驚きの表情を浮かべた。それは、常に自信に満ちあふれているようなカッツェからは想像もできない表情であり、キサは意外さを覚えた。
カッツェはしばらく小首をかしげて考え込んでいたが、やがて向き直ると言った。
「……心当たりはあるよ。まあ、そこがこの街で一番高い場所かどうかは僕にも判らないけどね。星を見るのには充分な場所だとは思うよ」
「じゃあ、決まりね。風鳴りの祭の夜、みんなで星を見に行こう!」
ナユタはすっかり興奮した口調でそう言った。
カッツェはわずかに首をすくめるとキサに向かって言った。
「君はどうだい、彼、すっかり行く気になっているけど」
「え……僕?」
考え事をしていたキサは不意を突かれ、目をしばたかせた。彼には、なぜナユタが星を見に行くことにこれほど興味を示しているのか理解ができなかったのである。まるで、星図盤を買ったのは自分ではなく、ナユタであるような気がした。
だが、その思いつきは素敵であった。普段の日なら夜間の外出など許されるわけもなく、諦めるところであるが、風鳴りの祭の夜なら話は別だ。
「うん……いいね。僕も行きたいよ」
「そうかい……それじゃ、決まりだね」
カッツェのうなずく顔を見ながら、キサは自分の胸が高鳴っていることに気付いた。
なんで、こんなに胸が鳴るんだろう……星を見に行くという冒険に対する期待からか、それとも……?
ふと、キサはカッツェが不思議そうに彼の顔を覗き込んでいることに気付いた。何かおかしい表情でもしていたのであろうか? そう考えると彼の顔を見るのが恥ずかしく思えて、キサは慌ててうつむいたのだった。
* * *
気がつくと、部屋の中はもうすっかり暗くなっていた。どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。キサは身を起こすと小さく伸びをして、サイドデスクの上のフロギストン灯のスイッチをひねった。新鮮な空気の供給を受けたフロギストンの欠片が青白い光を発する。
枕元に置いてある星図盤を取り上げる。フロギストン灯の光を受けて、まるではじめてショーウィンドウ中に見つけた時のように、それはきらきらと輝いていた。
耳なれない音がキサの耳を突く。まるで哀しみにくれた人の慟哭のように、悲し気でそれでいて力強い音。もう、風が吹きはじめているのだろうか?
「キサ……ナユタさんが来たよ」
部屋のドア越しに彼を呼ぶ母親の声が聞こえる。キサは慌てて外套を着込むとその中に星図盤を隠した。
ドアを開くと母親が立っていた。細面の顔は血色が悪く、髪も乱れている。彼女はキサを見下ろして、先ほどの呼び声と同じように弱々しい口調で言った。
「どうしたんだい、さっきから呼んでいたのに」
「ごめんよ、母さん。ちょっと寝ちゃってたんだ」
居間を通り抜ける際、キサは流しの修理を母親に頼まれていたことを思い出し、台所を覗いた。洗い物が乱雑に投げ込まれたままのシンクは下水管から溢れかえった汚水に満たされ、異臭を発していた。どうやら下水管が完全に詰まってしまっているようだ。