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風鳴の祭

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 カッツェはエンジンを停止させた。慣性によってトロッコはしばらく走り続けていたが、やがてその速度をゆっくりと落とし、打ち捨てられた小さな停車場の前で止まった。
 カッツェがしなやかな身のこなしでトロッコから飛び下りる。キサとナユタも彼をまねて飛び下りたが、とても彼のように優雅にはいかなかった。キサはプラットホームにしたたか尻餅をついてしまう。
「こっちだ」
 カッツェは振り返りもせず、プラットホームを渡って小さな路地へと向かう。キサたちは慌ててその後を追った。
「ここを十分ほど進んだところに文化地区につながる通用門があるんだ」
「へぇ……」
 ナユタが感心したような声を発した。
 狭い路地は薄暗く、至るところに機械の部品などが散乱していた。やがて道は金属製のトビラに遮られ、行き止まりとなっていた。タールを塗りつけたように黒いトビラの前に立ち、カッツェが抑揚を殺した声で言った。
「僕だ、開けてくれ」
 返事はない。
 静寂に耐えきれなくなったキサがカッツェに問いかけようとしたその時、トビラの向こうでなにかの機械装置が作動したような重い金属音が響いた。
「カギが開いた。さあ、中に入りたまえ」
 カッツェに促され、キサはトビラのノブを掴む。だが、それを開けることはためらわれた。
 本当に入るのか? 入っていいのか? 文化地区に……。
「どうしたんだよ、キサ?」
 躊躇するキサの後ろで、ナユタがじれったそうな声を発した。
「早くトビラを開けてくれよ」
「う、うん、分かってる……でも」
 キサは後ろを振り向き、カッツェとナユタの顔を交互に見比べた。
「入りたくなければ、入らなくてもいいさ」
「……え?」
 カッツェの言葉にキサは首をかしげた。
「ここにあるのは時に置き去りにされた忘れ物ばかり……大したものじゃない。”上”に棲む限り必要のないものばかりさ」
「カッツェ……」
「どうする? ここから引き返してもいいんだよ」
「キサ! ここまで来て引き返すつもりかよ?」
「ナユタ、それは……」
 キサはカッツェの視線を感じ、彼の顔を見上げた。黄金色の瞳がどこか愉快そうな輝きをたたえてキサを見下ろしている。
 笑っている? カッツェは、僕のことを……笑っている?
 なにか、言葉では言えない感情がキサを突き動かした。それは、今まで彼が感じたことのない種類の、言葉に言い表わすことのできない熱い感触の想いだった。
 錆びついた蝶番が悲鳴に似た音をあげて軋む。金属製のトビラがゆっくりと押し開かれ、視界が開けていく。路地に流れ込む暖かな空気と一緒に、キサはカッツェの笑い声を聞いた。
「ようこそ、文化地区へ」



 ナユタやカッツェと共に過ごした日々の記憶を、キサは死の臥所で最期の瞬間を迎えようとするその時まで忘れることはなかったが、しかし人に問われると、彼は説明するための言葉を持ち合わせていないことに気づき、いつも困り果てるのであった。
 それほど、彼にとってそれらの記憶は驚きや印象にに満ちたものだった。そして、その日彼が見た文化地区の光景は、彼にとってかけがえのないそれらの記憶の最初のページを彩るものであった。
 街の外はあれほど寒かったというのに、ここはともすれば外套が要らないほど暖かな空気に満たされている。キサ達の住む区画よりもずっと明るく綺麗な光を放つフロギストン灯が街全体を照らしている。
 色とりどりの天蓋に覆われたウィンドウの中で輝く見たこともない品々、道の傍らに佇み、ぴかぴかに磨きあげられ、曲がりくねった真鍮の管や糸を張った木の箱を鳴らす男たち、酒場の窓から聞こえてくる、聞いたこともない歌の数々。贅沢に布地を使った美しい衣装を身にまとう女たち……そこにいた大人たちは、彼が知っている他の誰よりも陽気で熱気に溢れ、そしてどこか退廃的だった。
「おい、キサ、見てみろよ!」
 ナユタが商店のウィンドウにすがりつき、大声で呼び掛ける。キサが駆け寄ると、ナユタはウィンドウの中を指差して言った。
「ごらん、君、あんな陶器の細工物を見た事があるかい?」
 ウィンドウの中で、小さな子供をかたどった陶器製の置き物がキサたちに向かっておじぎをしていた。
「それからさ、それからさ、こっちにもすごいものがあるんだぜ、ごらんよ!」
 すっかり興奮した様子のナユタは、キサのことなどお構いにウィンドウからウィンドウへと渡り歩いた。はぐれたりしたら大変だ。キサはその後を追い掛けるだけで精一杯だった。とてもウィンドウの中を覗くゆとりはない。
 ふと、キサの視界を何かの輝きがかすめた。
 キサは立ち止まり、辺りを見回す。その輝きは路地の奥まったところにある商店の小さなウィンドウから発していることに気が付いた。
「おい、キサ、早くこっちにきてごらんよ」
 数件先の商店の店先から、ナユタが振り返ってキサを呼んでいる。しかしキサは、まるで何かに魅入られているかのように、輝きを発する商店のウィンドウへと近づいていった。
 それが何なのか、キサにはまったく分からなかった。おそらくはギヤマン製と思われる、深い藍色をたたえた半透明の皿状のものであった。表面には無数の金の点が打たれており、それらを結ぶように銀線が引かれ数々の人物や動物の図を描いている。うす青いフロギストン灯の光を受けて、キラキラと輝いていた。
 キサは固唾を飲んでその美しいものを見つめた。薄いギヤマンのはずなのに、まるでどこまでも続いているかのように深く、そして厚く感じられる。キサは自分が藍色の中にどこまでも落ちていくような錯角を覚えた。彼の周囲を無数の金の光点が覆い、彼と一緒に流されていく。
「おや、お客さんかい?」
 しわがれた声が、キサを現実の世界へと引き戻す。商店の表玄関からしわだらけの老人が顔を覗かせ、鼻先に乗せた小さな丸眼鏡を通してキサを見つめていた。
「おやおや、ここいらでは見かけない子だね。”上”から来たのかい?」
「あ、あの、その……」
 老人の表情にも口調にも、彼をとがめている様子はまったくなかったが、キサは答えに窮して口籠ってしまった。
「やあ、カニスのじっさん、ひさしぶり」
 背後からの声に驚き、キサは振り向いた。いつのまにか、彼のすぐ後ろにカッツェが立っていた。
「おぅおぅ、誰かと思えばカッツェじゃないか。まだ管理局に捕まらずにいたか、この悪ガキめ」
「じっさんがくたばるより前には、そう捕まったりはしないよ」
「こいつめ、背が高くなる分、口まで達者になりおる」
 カニスと呼ばれた老人はからからと愉快げな笑い声をあげた。
「ところで、この子はおまえさんの知り合いかな?」
「ああ、キサっていうんだ」
「あ、あ……は、はじめまして!」
 キサは外套のフードを脱いでぺこりと老人に頭を下げた。
「はい、こんにちわ……そんなところで固まってないで、店の中にお入り」
「え……?」
「いいから、入りなよ。この店には変わったものがたくさんあるんだよ」
 カッツェに背中を押され、キサは店の中へと入ってゆく。
 玄関をくぐろうとしたキサは、廂の下にぶら下がった小さな看板を見て、この店の名前が”天狼星”ということを始めて知った。
作品名:風鳴の祭 作家名:かにす