風鳴の祭
時計の針は午後四時ちょっと過ぎを指していた。
気象部の予報では、風は今日の六時頃から吹き始めるという。あと二時間ほど……キサは待ちきれない思いに駆られる。
彼はベッドに身を投げ出しあお向けに寝転ぶと、星図盤を頭上にかかげて、いつまでも飽くことなくそれを見つめていた。
それは、数日前の放課後の出来事だった。
「文化地区にいってみよう」
ナユタの提案はいつも唐突でその内容もとっぴなことが多いが、この時の提案は中でもとびっきり強烈なものだった。帰り支度をしていたキサはランセルに教本をつめこむ手を止め、まるい目を大きく見開いていたずらっぽい笑みを浮かべた友人の顔を見つめた。
ナユタは炭坑夫の父を持つキサの同級生で、彼より10センチも背が高い。灰色の髪を短く刈り込んだ陽気な少年で、キサとは入学以来の付き合いになる。
普通大人たちの影響を受け、子供たちも『駅員組』か『炭坑夫組』に別れてそのグループの中でしか付き合いを持とうとしないのが通例だが、ナユタはそういうことにはまるで無頓着で、『駅員組』の子に対しても分けへだてなく振舞う。そんな気さくな性格のせいか、彼はクラスのリーダー的存在であった。
「文化地区に?」
「ああ、商業地区に売られてるお守りより、もっと凄いのが見つかるかもしれないよ」
ナユタの言うお守りとは、『風鳴りの祭』の夜に、ビルの屋上から飛ばす風流しのお守りのことだった。
長さ30センチ、幅5センチほどの色とりどりのリボンの先に小さな半透明のセルロイドの玉が付いているのが大体標準のものである。玉の中に小さな錠剤サイズのサイリウムを入れて光らせ、高いところから風に流すのだ。
「だめだよ、
このあいだも二十八組のファジが文化地区に入ろうとしたところを先生に見つかって、停学処分になったらしいよ」
「あいつは地区正面のゲートから入ろうとしてバレたんだよ。だから見つかってしまったのさ。俺はそんな、間抜けなことはしない」
ナユタは自信満々の口調でそう言ったが、キサは不安を振り払う事ができなかった。
「でも……」
「大丈夫だって!」
ナユタはキサの耳もとに口を近付け、こう囁いた。
「カッツェが案内してくれるっていうんだ。アイツなら間違いないさ」
「カッツェって、あの……?」
キサの問いかけに、ナユタは大きく頭を振った。
カッツェというのは、キサたちより幾つか年上の少年である。キサ自身は直接カッツェと会ったことはないが、ナユタの友達の不良少年たちから幾度もその話を聞かされたことがあった。
親や教師たちは、子供たちがカッツェと接することを激しく嫌っている。それは彼が文化地区に住む未登録の少年であるからだ。
『文化地区』と呼ばれる下層地区に住む住人たちは皆、反社会的だと言われているが、なぜそう言われるのか、キサには判らない。文化地区への立ち入りは学校で禁止されているから、キサは一度もそこに行ったことがない。だから『文化地区』の住人がどんな者たちなのか、彼はほとんど知らないのである。唯一、カッツェのことを除いて。
カッツェはキサたち初等学校の生徒達誰にとっても、特別な存在だった。
学校にも通わず、職に就くこともなく、自由に生きる少年。その容姿も振る舞いも、学校に通う子供たちとはまったく違っていた。
不良少年たちはこぞってカッツェとの付き合いを求めた。彼らにとってカッツェと付き合うということは、一種のステータスシンボルとなっていたのである。
「ナユタ、君、カッツェと知り合いだったのかい?」
「まあね……最近知り合ったばっかだけど」
「ふーん」
「なあ、行こうよ、キサ。おまえだってカッツェと会いたいだろ?」
「う、うん」
キサは思いあぐね、口ごもった。不安と期待の混ざりあった複雑な気持ちにかられる
確かにキサにとっても、カッツェは憧れの存在だった。
カッツェを知る者たちから伝え聞く限り、まるで死んだ祖父から聞かされた古いおとぎ話の主人公のように格好よかったし、自分もいつか彼と会って話をしてみたいと思っていたのは確かだった。
しかし、実際にカッツェと会うなど、キサにとっては思いもよらぬことであった。彼は決して優等生ではなかったが、親や教師たちのいうことを当然のこととして受け止め、今まで彼らに反抗したり、進んで禁を破ることなど考えたこともなかったのである。
文化地区へ行って買い物をする……それだけでも立派に禁を破る行為だ。
しかも、あの”札付き”のカッツェと行動を共にするなど、教師に見つかればただでは済まないだろう。
「やっぱりまずいよ、ナユタ。やめようよ」
「あいかわらず気が小さいな、キサは」
「だって」
「大丈夫だって。カッツェが絶対見つからない抜け道を知ってるんだってさ」
本当に、と念を押すキサに向かってナユタは自信満々の表情でうなずいてみせる。
「いくだろ?」
「……うん」
「よし、決まりだ! 明日の放課後、北の操車場跡で待ち合わせしてるんだ。ちゃんとこづかいもらってくるんだぞ」
「分かったよ」
心中から不安が消えたわけではなかったが、キサはそう言ってうなずき返した。親や教師たちと同じく、彼はナユタの言うことに逆らったこともなかったのである。
その翌日の放課後、キサはナユタに引かれるようにして裏路地を通り抜け、の操車場跡へ向かった。
キサはこの操車場跡が嫌いだった。がらんと開けた空間のそこかしこに打ち捨てられた機関車の列が、なにかまるで巨大な墓の列かのように思えるからだった。
辺りはこの季節特有の午後の霧に覆われて視界が悪い。霧を通して見る廃車は揺らいで見えるため、一層気味の悪さが増している。
キサは早足で先をいくナユタの外套の裾をしっかりつかんで、懸命にその後を追った
「重いよ、キサ、そんなに引っ張っちゃ」
「ごめん……でも、カッツェはどこにいるの?」
「向こうに車庫が見えるだろ? あそこの中で待っているって言ってた」
”今引き返せば誰にとがめられることもない。商業地区にいって風流しのお守りを買って家に帰ろう。”キサはそう思ったが、その提案を口に出して言うことはできなかった。
枕木を踏み外さないよう慎重に足場を選びながら、二人は車庫へと向かった。
使用されなくなってどれほどの歳月が流れたのか、朽ち果て黒ずんだ車庫の正面に立って、キサは思わず身震いする。
「どうした、寒いのかい?」
ナユタがからかうように言う。キサは小刻みに頭を横に振ってそれを否定した。この震えは寒さのせいだ。こわくなんかない。自分にそう言い聞かせる。
車庫の中は薄暗く、がらんとしていた。ナユタは手袋を外し、指笛を吹いた。
残響音が消え去り、再びもとの静けさが戻ってくる。誰も返事を返してはこない。
「……誰もいないのかな?」
「そんなはずはないよ。たしかにここで待ち合わせる約束をしたんだ」
ナユタも心なし不安を感じているのか、その口調はいつもより頼りなかった。
沈黙に耐えかねたキサがもう帰ろうと言おうとしたその時、車庫の奥でかすかな物音がした。二人は緊張し、身を固くした。
奥の暗がりから誰かが歩いてくる。ゆっくりとした足音が車庫の中に響き渡る。