小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

風鳴の祭

INDEX|1ページ/10ページ|

次のページ
 

『風鳴りの祭』



 キサは家路を急いでいた。
 彼の通う職業学校と自宅は五区画も離れている。十歳の少年の足では、どんなに急いでも二十分はかかる距離である。
 十一の月もとうに半ばを過ぎ、街の外気は刺すように冷たかったが、外套を着込んで走っているとものの五分もしないうちに身体の中が熱くなってくる。
 キサは額がうっすらと汗ばんできたことを感じて立ち止まった。
 外套のフードを降ろし、汗を拭う。紅いクセっ毛の前髪をわずらわしげにかきあげつつ上を見上げる。
 天を突くようにして林立する摩天楼と、いくえにも重なりその谷あいを走る無数の鉄路。
 街を構成し、同時にそれを支える構造体が形作る幾何学的な紋様の、そのわずかな隙間の向こうに夕暮れの曇天が覗いている。
 鉄錆の葡萄茶色と鉛色の織り成す単調な色の世界。
それはキサが物心ついてこの方ずっと見続けてきた当たり前の景色のはずであったが、昨日手に入れた新しい宝物が教えてくれた世界にくらべれば、色褪せて重苦しく感じられた。
 炭坑列車の帰着を告げる汽笛が鳴り響き、上層にあるプラットホームから灰色の作業着に身を包んだ大人達の列が階段からぞろぞろと降りてくる。かん高い汽笛の悲鳴と、大人達の安全靴が鉄板で鋪装された階段を踏みならす騒音が、どこか遠くに飛んでいたキサの意識を凍てついた地面へと引きずり降ろした。

 そうだ。急いで帰らなきゃ。
 いくら寝過ごしてしまったからといって、ベッドの下に隠してきたのはまずかった。
 お母さんが僕のいない間にマットレスを乾燥器にかけようとしたら、きっと見つかってしまうはずだ。『風鳴りの祭』に使う風流しのお守りの代金として貰ったこずかいを使ってしまったことがバレたら、怒られてしまう。いや、それよりも、あのカッツェと一緒に『文化地区』に行ったことが知られたら……。
 キサはランセル(背嚢)を背負い直すと、再び快活な歩調で走り出す。影のようにゆっくりと歩む大人達の列をかいくぐり、彼は家へと急いだ。

 キサの家は北B−112居住区画にあるミーツハオスの七十二階にある、ごくありふれたフラットだ。機関車の整備技師をしている父親と外注でダイヤグラム作成部に携わる彼の妻が望めるものとしては、最上級の住宅だ。
 キサは五十階の連絡口から建物の中に入る。無数のスチームパイプが這う天井と古びた漆喰の壁に覆われた狭い廊下を走り抜け、エレベータホールへと向かった。
 円筒形をした建物の中心部分にエレベータホールはあった。
 フラットの居間より少し広い程度のホールに炭坑帰りと思われる、汚れた作業着をまとった男が数名、疲れた表情を浮かべて立っていた。その中の一人がキサの足音をとがめたかのように彼に視線を向ける。
 キサは一瞬身を固くするが、男が視線を元に戻すと安堵のため息をついた。
 『炭坑夫』の中には、『鉄道員』の子供だということだけで彼を理不尽にどやしつけたり文句を言ったりするものも少なくないのだ。実際彼自身何度となく炭坑夫に脅かされた経験があった。
 エレベータの格子状の扉の上に取り付けられた、ゴンドラの位置を示す針がゆっくりと動き、赤い字で書かれた『五十』の数字に向かって近づいてくる。
 やがてごとごとと重い音を立てて格子戸が開いた。
 キサは男たちの列に混ざってゴンドラに乗り込む。狭い空間にむせかえるような汗の匂いが立ち込め、キサは小さなくしゃみをした。
 室外灯の薄暗い明かりの下で、キサは駆け出したい衝動を抑えながら階数表示のメータを見つめる。途中の階でゴンドラが停止するのが、ひどくわずらわしいことに思えた。
 六十階を過ぎるころには炭坑夫たちは全員エレベータを降りてしまい、キサ一人だけがゴンドラの中に残された。
 ゴンドラは相変わらずごとごとと重い音を発しながらゆっくりと昇っていく。
 軽くなった分、速度が上がってもいいのに……キサは、せわしく足踏みをして、はやる気持ちを抑えようとした。
 メータの針がようやく七十二階を指し、ゴンドラがゆっくりと停止した。
 開きかけた格子戸の隙間をすり抜けると脱兎の勢いで走り出す。
 廊下に散乱する住人達の放置した生活用品や廃品を器用に交わして走り抜け、ようやく自宅のドアの前に立った。
 キサは深呼吸した。べつに息が上がっていたわけではないが、何か母親に見とがめられそうな気がして、緊張していたのである。
 ドアノブをつかみ、ゆっくりと開く。
 鉄板製のドアは重く、錆びついたちょうつがいが悲鳴のような音を立てる。キサはなるべく足音を立てないようにそっと暗い室内へと入った。
 静かだった。
 聞こえてくるのは暖房用のスチームパイプを走り抜ける蒸気と、奥の部屋から響いてくるタイピングの軽快なリズムの音だけ。
 薄汚なく、あちこちガタのきているフラットだったが、さすがに低階層の住宅とは違い防音壁だけは完備されており、昼夜を分かたず建物の外を走る汽車の騒音は室内にいる限りほとんど聞こえない。
 居間のわきを通り抜け、途中の寝室を覗く。狭い寝台の上でこんこんと眠る妹の顔色は、いつもより少しだけ良かった。ほっとしたキサはそのまま自室へ向かう。だが、奥の部屋から呼びかける母の声に気づいて、彼は立ち止まった。
「帰ったのかい、キサ?」
「うん……ただいま母さん」
「悪いけど、台所の流しの配水管、見といてくれないかい? 今朝からまた調子が悪くてねぇ」
「分かった、後で見ておくよ」
 キサは初等学校で機械技術の訓練を受けている。将来は彼の父親と同じく、汽車の整備技師になるだが、今のところ彼に仕事を頼むのはもっぱら彼の母親であった。
 キサの部屋はフラットの一番奥にある。ベッドと机に面積のほとんどを取られている、縦長の小さな部屋だ。彼は部屋の中の様子から、今朝彼が家を出てから今まで誰もこの部屋に入っていないことを知り、安堵の息を吐き出した。
 外套を脱いで椅子の背にかけ、机の上にランセルを放り出すと、キサはベッドのマットレスの下に手を突っ込み中を探った。指先に硬質のひやっとした感触を覚える。それを指先でつまみ、そっとマットの下から引き出した。
 それは、てのひらに収まるほどの小さな星図盤だった。深い瑠璃色に染まった円形で半透明のギヤマンの表面に、金色の点が無数にうたれ、星を現している。星と星との間を結ぶ銀線がさまざまな絵柄が描かれている。それらはすべて、神話や伝説に歌われる神々や生き物たちの姿だった。
 キサは星図盤をうやうやしく掲げると、填め殺しの小窓から差し込む光に透かしてみる。光にさらされた星図盤は深い瑠璃色から鮮やかな青色に変わり、きらきらと輝いた。星図盤を見つめながら、キサはカッツェから聞いたあの言葉を思い返す。

『一年に一度、風鳴りの祭の日の頃、空を覆う雲が
風に流されて本当の星空が見えるんだ』

 キサの胸は、『本当の星空』のことを考えただけで高鳴った。
 机の上に置かれた古い卓上型の蒸気時計に視線をおくる。彼の祖父が手慰みに汽車の部品を使って作り上げたものだ。
 祖父は整備技師を勤めていた寡黙な男で、六十を越える長生きだったが、一年前に結晶肺の病で他界した。
作品名:風鳴の祭 作家名:かにす