愛を抱いて 6
「だって…、…よく笑ってられるわね。
もしこのまま、治らなくなったらどうするの?」
「そしたら、みんなで面倒を看てやるさ。」
「毎日愉しいわよ。
漫才視てるより、面白いわ。」
「うわあっ!
眼が開かない!」
突然ヒロシが叫んだ。
東京に来て私が最も驚いたのは、日の出の時刻が早い事だった。
夏場には4時になると、東の空がうっすら明るかった。
広島と東京では、日の出の時刻に1時間の差があった。
朝の8時半になると、柳沢を布団の上に残して、我々は朝食を食べに出かけた。
沼袋駅前の「赤いサクランボ」という喫茶店に入った。
入口で、店の看板の「赤い」という文字を視て、我々はまた笑った。
「『赤い靴』って何かしらね?」
「半分夢でも見てたんじゃないの?」
柳沢は夜が明ける頃、眠ってしまった。
「柳沢君、可哀相だったわ。
みんなずっと笑ってたけど、もし眼が覚めても、あのままだったらどうするの?」
「あなた心配する振りをして、ずい分残酷な事を云うわね。」
「可哀相なのは俺だよ。
まつ毛が6本も抜けちゃったんだぜ…。」
モーニングを食べ珈琲を飲み終えると、4人はそれぞれのアパートへ帰って行った。
私は部屋へ戻って髭を剃り、支度を整えると、広田みゆきに逢うため出かけた。
〈一一、赤い靴事件〉
12.日曜の風景
渋谷駅の売店で、牛乳を飲み、グリーン・ガムを買った。
東横線の改札口の前に立っていると、みゆきが電車を降り、こちらへ歩いて来るのが見えた。
我々は、代々木公園へ行った。
歩行者天国には相変わらず、竹の子、ローラー、若干のローラースケーターと、多くの見物人がいた。
公園は、子供連れの夫婦やカップルやジョギング・スタイルの老若男女で、賑わっていた。
私と淳一は入学してわずかの間、「軽音楽研究会」に籍を置いていた。
私は欠席したが、4月に行われたそのサークルの新入生歓迎コンパに、淳一は出席した。
コンパの翌日、淳一はこの公園のベンチで眼を覚ました。
その日も確か日曜だったと思う。
私は、公園に来たのは失敗だったと感じていた。
太陽の光が、徹夜の身体に応えた。
日曜に相応しい天気であった。
ベンチは満席だったので、我々は芝生の上に腰を降ろした。
「佳子ちゃんは元気かい?」
「ええ、元気よ。
あなたによろしくって云ってたわ。」
私は佳子の顔をほとんど思い出せなかった。
「ねえ。
逢うのは今日がまだ2度目だけど…、ぜひ君に、お願いがあるんだ。」
私は云った。
「…何?」
周りには沢山の、若いカップルがいた。
「膝枕しても好い?」
彼女は、なぁんだという風に笑った。
「いいわよ。
どうぞ…。」
彼女は脚を伸ばした。
私は周囲のカップルと同じ様に、彼女のスカートの上に頭を載せた。
「あれ…?」
私は驚いて跳び起きた。
太陽があまり眩しくなかった。
あろう事か、私は彼女の膝の上で長い時間、熟睡してしまったらしかった。
昨夜、少しでも寝ておくべきだったと後悔した。
「御免ね。」
私は云った。
彼女は笑っていた。
「よく眠ってたわよ。
ゆうべ寝てないんでしょう?」
「うん。
君に逢う事を考えて、一睡もできなかった。」
「そうなの。
じゃあ、許してあげる。」
私は腹が空いたと云い、二人でNHKホールの方向へ歩いた。
その夜8時頃、彼女は東横線の電車に乗り、横浜へ帰って行った。
今度はちゃんと、「おやすみ」を口で云った。
彼女と私は、毎週土曜か日曜のどちらかに、必ず逢う約束をした。
三栄荘へ帰ると、柳沢は私の部屋でテレビを視ていた。
「どうだい、気分は?」
私は訊いた。
「それが、あまり良くないのさ。
昼頃起きたら、胃が痛くてさ…。
きっと、あまりの痛さで眼が覚めたんだろうけど、我慢できない程なんで、そこの救急病院へ行って、診てもらった。」
三栄荘から沼袋駅へ行く途中に、「沼袋病院」という救急病院があった。
「そしたら、急性胃炎だってさ。」
「で、大丈夫なのか?」
「注射を打ってもらった。
まあ、大丈夫らしい。
ただ、物が食べれないんだ。」
「何も食べてないのか?」
「薬を呑んだけど、胃に入った物をみんな戻しちゃうんだ。」
私はフー子を呼んで来ると云って、外へ出た。
彼女は部屋にいてくれた。
柳沢の事を話して、私はまた三栄荘に戻った。
しばらくすると、彼女は水粥を作って持って来てくれた。
「食べられるかしら?
まず一口だけ食べてみて。」
彼女は云った。
腹は減ってるんだがと云いながら、柳沢はスプーンで粥をすくい、そっと口に入れた。
「美味い。
食べれそうだ。」
「良かった…。
でも少しずつ、ゆっくり食べるのよ。」
柳沢は美味しそうに、粥をすすった。
「ただ、近くに救急病院があって、日曜でも診てもらえたのは運が良かった。」
柳沢は云った。
「これからきっと、俺達の指定病院になるんじゃねえか?」
私は云った。
「俺はもう懲り懲りだぜ。」
まだ食べたいと云う柳沢に、フー子は残りはしばらく時間をおいてからと云って、スプーンを置かせた。
「わあっ!
また出た!」
柳沢が叫んだ。
テレビがロバート・ブラウンのCMをやっていた。
ラリー・カールトンの曲が流れた。
「酒の写真を視ると、吐きそうになるんだ。」
柳沢は眼を閉じていた。
私とフー子は吹き出した。
「お前、フー子ちゃんが作ってくれたお粥を、戻すんじゃねえぞ!」
私は云った。
「もう終わったわよ。」
テレビは次のコマーシャルを始めた。
柳沢は眼を開けた。
「何か口もとに、酒の味と匂いが甦って来るんだよな…。」
彼はまだ少し、気持ち悪そうだった。
「重症ね…。」
フー子が云った。
私は昨夜の「赤い靴」について柳沢に尋ねてみた。
フー子もぜひ聞きたいと云った。
「俺、そんな事云ったの?」
柳沢は覚えてない様だった。
話を聞いてみると、彼が高校2年の時、夏休みに1ヶ月程アメリカへホーム・ステイに行った事があった。
ホーム・ステイは、同じ群馬の高校生数人が一緒だったが、向うでその中の一人の女と彼は恋愛をした。
そして彼女とアメリカの街でデートした時、彼は彼女に赤い靴をプレゼントした。
彼女は彼のために、赤い帽子を買ってくれた。
二人にとって、それは二人だけの想い出の品になるはずだった。
いよいよ日本へ帰るという日、空港で飛行機に乗る直前に、彼女は赤い靴を忘れて来てしまった事に気づいた。
赤い帽子だけが残った。
「でも赤い靴は、後から郵便で送ってもらったのさ。」
柳沢は云った。
「今もあるの?」
フー子が訊いた。
「うん。
ある。」
ホーム・ステイで知り合ったその女性が、現在太田女子高校に通っている彼の今の彼女であった。
「何だ。
面白くも何ともないじゃない。」
フー子が云った。
「俺は面白い話をするつもりはなかったぜ。」