愛を抱いて 6
11.赤い靴事件 ~柳沢泥酔事件~
深夜になって、ディスコ大会はいつもの宴会に切り換わった。
「あなた達、最近よくフー子の部屋へ侵入してるんだって?」
香織が、私と柳沢に向かって云った。
「ゆうべなんて料理まで作らせたそうじゃない。」
「料理はフー子ちゃんの好意だぜ。
それにカットしてもらったり、洗濯させてもらったり、理由があって行ってるのさ。」
私は云った。
フー子も頷いた。
「別に、君がとやかく云う事はないだろう?」
突然、柳沢が強い口調で云った。
「私は… 」
香織は柳沢の調子に驚いた様だった。
「ただ、女の子の部屋へ夜押しかけるなんて、大胆だなって思って…。」
「俺達が三人で買った洗濯機が、彼女の処にあるだけの事さ。
そして君には関係のない事だ。」
柳沢は口調を変えなかった。
初めは軽くからかうつもりで口を開いた香織は、柳沢の敵意を持った言葉に、少しムッとなった。
「関係あるわよ。
フー子は私の大事な友人だわ。」
「俺達が彼女に、何か悪い事でもするって云うのかい?」
柳沢と香織を除いた者は、「これは拙いな…。」と感じながら、しかし黙っていた。
「そんな事云ってやしないわ。
ただフー子がきっと、迷惑してるって云ってるのよ。」
「彼女が迷惑だと云うのなら、勿論遠慮するさ。」
「彼女は人が好いから、面と向かっては云わないわよ。」
「フー子ちゃん、…俺達は迷惑かい?」
柳沢はフー子に訊いた。
フー子は、急に自分が喋らなくてはいけなくなって、少し困った顔をしたが、静かに答えた。
「…勿論、迷惑じゃないわ。」
「フー子、正直に云っといた方がいいわよ。
この人達、すぐ図に乗るから…。」
香織が云った。
「…本当に迷惑だなんて思ってないわ。
私、一人でいると淋しくて仕方のない性質だから…、部屋へ遊びに来てくれたり…、みんなと、こうしているのが愉しいの。」
フー子は自分のグラスに視線を置いて、真面目な顔で云った。
「もし、香織も世樹子も中野に住んでなくて、柳沢君や鉄兵君に逢う事もなくて、毎晩部屋へ帰ってからずっと一人でいる生活を、今頃してたら…、私きっと、耐えられなかったと思う。
だから…、本当に…、みんなに感謝してるわ…。」
柳沢と香織は、もう云い争う事をしなかった。
その夜、柳沢は普段の何倍ものペースで、何倍もの量の酒を呑んだ。
「柳沢、顔が蒼いぞ。」
既に眼を据わらせて、ヒロシが云った。
いつもヒロシは、酔うと口調が乱暴に変わった。
「お前、何か荒れてるな…。」
そう云って身体を横にしたかと思うと、ヒロシは眠ってしまった。
彼が宴会の途中で眠るのも、いつもの事だった。
「柳沢君、もう止めた方が好いんじゃない?」
世樹子が心配そうに云った。
「そうだな…。」
と云いながら柳沢は、氷だけになったグラスにウィスキーを注いだ。
「鉄兵、勝負しようぜ。」
不意に柳沢が云った。
フー子と一緒に、ヒロシの瞼にバンドエイドを貼っていた私は、「よし。」と云って柳沢の正面に座った。
私と柳沢は乾杯をして、水割を一息に呑み干した。
「止めなさいよ。
柳沢君はもう酔ってるわ。」
世樹子が云った。
我々は2杯目の一気を終えた。
「止めてったら…!」
世樹子が叫んだ。
「呑みたいのなら、好きなだけ呑ませれば好いのよ。」
香織が云った。
我々が3度目の一気を終えてグラスを置いた時、世樹子は涙汲んでいた。
「次からはストレートで行こう。
その方が勝負が早い。」
私は云った。
氷がわずかに残っているグラスに、ウィスキーだけを入れて、我々は乾杯した。
胃の中へ、熱いものが流れ落ちて行った。
柳沢は激しく咳き込むと、口を抑えたまま立ち上がった。
そして心もとない足取りで、部屋を出て行った。
しかし、彼が階段を下りて行く音は聴こえなかった。
開いたドアの向うから、激しい嘔吐が聴こえた。
トイレは1階にあったが、彼は我慢が効かなくて2階の廊下の窓から、外へ吐き出したのだった。
香織と世樹子に抱えられて戻って来ると、彼は完全に潰れてしまった。
仰向けに転がり、苦しそうな唸り声をあげていた。
「大丈夫かしら…?」
世樹子が云った。
「多分…、身体の方は大丈夫さ。」
私は云った。
アパートの裏で、誰かが叫んでいる様だった。
私は廊下へ出て、先程柳沢がゲロを吐いた窓から顔を出した。
窓の下は民家の庭であり、そこにその家の主人らしき男が立って、こちらを見ていた。
男の横には自家用車が停まっており、その自動車の上一面に嘔吐物が付着しているのを視て、私は男が叫んでいる理由を理解した。
私は急いで部屋へ戻った。
「どうしたの?」
「柳沢がゲロを吐いた真下に、車が駐車してあった。
ちょっと、行って来る。
君等は出て来なくていいから…。」
そう云って私は、また急いで部屋を出た。
靴箱の横の開き戸を開け、バケツと雑巾を取り出してバケツに水を汲むと、私は三栄荘の門を駆け出た。
平身低頭、家の主人に詫びを云い、ゲロを被った車を掃除した。
何度も水を換え、やっとの事で車を綺麗にしてからアパートへ戻ると、階段の処で世樹子が待っていた。
「御苦労様。
私達も手伝うべきだったのに、御免なさい。」
「いいんだよ。
ちゃんと許してもらった。」
「あのね、柳沢君が…、ちょっと変なの。」
「えっ…?
どういう事だい?」
「頭が…、おかしくなっちゃったみたいなの…。
私、怖い…。」
「どうしたんだ?
柳沢は眼を覚ましたのかい?」
私は世樹子を連れて部屋へ入った。
部屋では、香織とフー子が笑い転げていた。
柳沢は窓に背中を縋らせて、座っていた。
「赤い靴を忘れちゃった…。」
柳沢が云った。
私は彼を注視した。
相変わらず顔色は蒼かった。
そして眼が半眼で、瞳の焦点が合ってなかった。
「取りに戻らなきゃ…。
ああっ!
飛行機が…、…行っちゃうよお!」
宙を見ながら、彼は云った。
彼が喋るたびに、香織とフー子は腹を抱えて笑った。
「柳沢君、しっかりして。」
世樹子は泣き出しそうな声で云った。
「一人言…?」
私は香織に訊いた。
「違うんじゃない?
返事をするもの。」
そう云って香織はまた笑った。
「赤い靴は、どこに忘れたの?」
笑いを堪えながら、フー子は柳沢に尋ねた。
「…。
飛行機… 」
「飛行機に忘れたのね?」
「…飛行機が、…行っちゃうよお!」
私も思わず吹き出した。
「赤い靴は、女の子が履いてたんじゃないの?」
今度は香織が訊いた。
「…。
…まだ、…履いてない…」
「女の子は飛行機じゃなくて、船で行っちゃったのじゃなかったかしら?」
フー子が云った。
「…飛行機…、赤い靴が…、…行っちゃうよお!」
「ねえ、鉄兵君。
何とかしてあげて。」
世樹子が云った。
「何とかって、救急車でも呼ぶのかい?」
「世樹子も心配ばかりしてないで、少しは笑いなさいよ。」
香織が云った。